トーク・トゥ・ミーを観た
年末年始は関東の実家に帰省していた。
正月は祖父母の家でご馳走を囲み、翌日に高校の友人達との飲み会を控えた1月2日、ちょうど暇を持て余していたので、かねてより気になっていたこの作品を観に行く事にした。
ちなみに、大きな映画館の無い地域に勤務しているのもあって、関東に戻るタイミングで頻繁に映画を見に行っていたりする。他に見た映画についてもそのうち記事を書くつもりだ。
この映画の存在についてはニュースフィードやYouTube広告で見かけていたので、ビジュアルやあらすじ程度は知っていた。降霊術を試した若者たちが怪奇現象に巻き込まれるといったストーリーだ。
ただ、自分としては、劇中で重要な役割を持つ不気味な陶器製の手の置物が特に印象に残っており、内なる直感が「この映画はアタリだ」と告げていた。
そして・・・
その直感は見事に当たっていた!
個人的には大アタリと言っていいだろう、映画館を出る時も私はニンマリしていた。
もっとも、ホラーを見てニンマリしているのも変だが・・・
観終わった後も色々と考えさせられる映画だった。鑑賞後考えたことについて書いていく。
※以降、結末に関するネタバレあるので注意!
私はこの映画の絶望的な結末、人間の弱さといった要素が大好きだ。
主人公のミアは、自分の欲望に周囲を巻き込み被害を生んだ挙句、自らの弱さ故に永遠に暗闇の住人となる運命をたどる。
私はこういった救われない人を描くストーリーが好きだ。性格が悪いのは認める。
しかし、同時に私は鑑賞中この主人公にずっと感情移入をしていた。
幸いなことに私はミアの様に親しい家族を亡くしてはいないし、友人にも恵まれている。もしかしたら性格の悪さはばれているかもしれないが。
それでも、自分がミアだったらどうしただろうかと考えると、彼女の行動は決して何の意味も無いただの「バカ」には映らなかった。
そこが、この映画の否定派と私の意見の異なる点だ。
私は映画を見た後、ネット上の他人のレビューを積極的に見に行く。同じものを見たうえで、自分と異なった感想を抱いた人を探すために。同じ意見の人にはそこまで興味はない。「うん、そのとおりだ」で終了だから。
この映画に対しての低評価意見には「主人公たちの間違った、非合理的な行動に終始イライラさせられる」といった物が多かった。
彼らはなぜイライラするのだろう。間違った、非合理というからには、自分が同じ状況にいたらもっと事態を良い方向に導く行動をとると考えたのだろう。
だが・・・
ホラーで事態が良くなることは、ホラー映画の望ましいシチュエーションとは言えない。後により悲惨な結果が控えており、そのショックを増大させる目的で機能していない限りは。少なくとも私はそう思う。
ホラー映画というからには、状況を常にめちゃくちゃに引っ掻き回し、私達観客に心細さと緊張感そして恐怖を存分に味わわせてほしい。フィクションなのだから。
だからこそ、後先考えずに愚かな行動を繰り返し、最悪の結末へひたすら歩みを進めるこの映画のストーリー、そしてキャラクター達を私はとても気に入った。
全員が愚かだったわけでは無い。ミアの親友であるジェイドは、降霊術こそ怖がってチャレンジすることは無かったが、霊のせいで見るも無残な見た目になった弟から決して目をそらさず付きっ切りで看病をこなした。
しっかり者もいれば、自分の事しか見えていない人間もいる、というのはごく普通の事である。
ここでいう後者はミアの事だが、彼女も根っから自分本位な人間であったわけでは無い。友達同然に仲の良かった母親を睡眠薬の過剰摂取による自殺で亡くし、片思いだった元カレが親友と付き合い常に視界に入っているといった状況で、彼女は表向きはお調子者を気取りながら、内心では「親」または「恋人」といった、「親友」では決して代わりにならない、絶対的な愛情の対象を渇望していた。
背景を理解せずに行動を批判するのは間違いだと、私は言いたい。ただ、現実ではミアの行動をバカだと言ってくれる人は貴重な助言をしてくれる優しい大人または友人であると言えるだろう。面倒見が良い人達なのだ。
最終的にミアは選択を誤った。しかし間違いは誰にでもある。ただ、ミアの場合、それが最後のチャンスだった。もっとも、観客の私からしたら状況をどんどん悪化させてくれたことに感謝をしたいくらいだ。私は現実では疎まれるタイプかな?
次第に、
このストーリーの原因はミアの家族にある、と私は考えるようになった。
欧米、キリスト教の価値観では、自殺した人は天国に行けないとかいうのを聞いたことがある。死んだ母親が生者の魂を狙う悪霊として描かれていたのはそのせいなのか、私には気になる。もちろん、劇中で「悪霊は姿を変えて現れる」と言っていたように、全く無関係の悪霊がミアにチャンスを見出しただけとも考えられる。
ミアは母親の姿をした亡霊に自分への愛を問う。母親の姿と声にすがりつくミアの様子は哀れなことこの上なかった。亡霊はもちろん彼女の望む答えを告げる。そして終盤、母は娘よりも自分の安らぎを優先させたのだという事実に対し、彼女は打ちのめされる。そしてこの場面での行動が彼女の運命を決めてしまった。
母親が鬱に対して家族に打ち明けていればこの悲劇は起きなかったかもしれない。しかし、鬱病の人は苦しみながらも周囲には平気な振りをするものだ。2017年7月、私の大好きなバンド、リンキン・パークのボーカルを務めていたチェスター・ベニントンが自殺したというニュースはあまりに衝撃的だった。ただ、調べるうちに、彼は色々な形で助けを求めるサインを出していたことが分かった。悲しいことに、そういった物はオープンな対話では一時の重たい沈黙の後に流されてしまう。たとえ違和感に気づいても深入りしないように気遣うからだ。
しかし、親密な間柄ーたとえば家族の様なーの相手に打ち明けた後の最悪な結果は、自分の苦しみを理解してもらえないばかりか相手まで苦しめてしまうことだろう。これが、鬱が当事者の周囲に明かされない原因の一つではないだろうか。
何とも難しいものだ。
現実も貞子VS佳也子みたいな単純な構造で済めばいいのにとか思う(見てないので単純じゃなかったらごめんなさい)。
と、ここまで、フィクションに対してあまりに深く移入しすぎたかもしれない。たいていの場合、深い理由なんてなかったりする。ただ、色々な事を考えるきっかけが散りばめられた良い映画であったことは間違いない。
勿論、最高に良いホラー映画だった。
次回の記事もよろしくお願いします。
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