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ありふれたもの


10代の頃の学校というコミュニティで経験する人間体験の特徴の一つは、良くも悪くも大人社会とは異なり損得・利害関係を超えた、超えざるを得ない存在同士の日常生活とそこから芽生える仲間意識や恋愛感情にあると思うけれど、その人間の価値が容姿や垢抜け具合によって大きく左右されるという価値観が蔓延してる現状の学校では、誰かの人間的な魅力を発見して無条件に愛おしく思ったり、そして親密になったりする可能性がなんだか小さくなってしまうよう気がするね、というのも本来誰かに親密さを抱くかどうかは専ら時間かけた主観的な体験によって醸成されていくはずだけれど、そこに容姿の美しさや垢抜け具合といった客観的でかつ即時的、そして生物的に強烈な価値基準が入り込んでくるのだからどうしたって向かい合う相手が集団全体の中でどのような位置にあるかを意識せざるを得ない、もちろんどの時代の学校にもそれなりに特殊な人間や人間関係の価値基準(戦前なら学校とて身分や家柄がものを言っただろうし、昭和なんかのヤンキー文化では喧嘩の強さがそれだったろうし)が存在してきただろうけれど、とりわけ美は生物の価値基準としては最も強烈でそれらしく見えるから余計具合が悪いね、それじゃあいったいどうして現在になっていきなり学校生活の中で美が人間の価値判断の基準として現れるようになったのかと言えば、それは周知の通りやっぱりSNSの普及発展だろうね、けれどルッキズム自体がSNS以前には存在していなかったとかいう訳ではなく、芸能界や夜の店のような容姿を売りにする世界の閉鎖的なコミュニティでは当然のようにその人の価値=美しさであったはずだから、そういった価値基準だけでなくもっと広い意味での美しさに関する”情報”が閉じたものだったはず、けどそこにSNSが登場したことによって本来であればその情報や価値基準にアクセスすることができなかった、或いはする必要がなかった人々にも年齢•性別•環境に関わらずそれが可能になってしまった、そしてそれまで誰もが公に口にしたり意識たりすることこそなかったけれど、美しさこそその存在の絶対的な価値であるという意識は生物としての人間には潜在的に備わっており、ルッキズムは人間の本能に強く合致した、それ故に本来であればごく小さな世界でのみ成り立っていたある意味歪な人間関係がそっくりそのまま社会や学校というより大きな世界にも持ち込まれることになったんだろうと思う、ただこれらはあくまでルッキズムに関して人間を生物としての一面から眺めた場合の考察に過ぎないし、俺個人的には美だけがその人間の価値ではないと強く確信してる、それからやっぱりこういった容姿至上の価値観は明らかに健全ではないよね、特に10代にとってはルッキズムやそれ基づく体験が思春期の繊細な人格に与える影響はあまりに大きく、それがその後の一生においても消えない傷になる可能性すらあるんだから

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