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親しくなること

誰かからの親しさのシグナルを感じるとそれ以上関係を深めることに極端なまでに恐怖を覚える。それは二つの意味で。一つは自分が相手にとって重要な存在になることへの恐怖。もう一つは自分の本当の姿を暴かれることへの恐怖。

だから僕は可能限り身軽でいたい。誰かと親しくなることは、その人に対して責任を負うことと同義だから、その重さが自分には耐えられない。ずっと精神的には一人で生きてきた人間にとって(もちろん客観的・社会的には一人で生きてきた人間なんていけないけれど)、自分の心の中に誰かのためのスペースを作ることは本当に難しい。適度な距離感、自分自身の意志で感情を調整できる範囲での関係の構築方法しか知らないから。踏み込むことも踏み込ませることをできない。

それに加えて、本心なんてのも飲み込むためにしか存在してこなかった。それはなぜかといえば、僕の場合は特に幼少期において、両親に自分の感情や本心を曝け出せるような環境ではなかったから。少なくとも主観的にはね。それ故か、自分の感情や本心というものを自分一人で解決していくべきものとしてしか認識できない。最も親しくあるべき存在である両親にすら、本心を開いたことがない人間が、いったいどうして血の繋がっていない人にそれを差し出せるだろうか。そうして気づけば、人に見せるための自分と本当の自分の間に修復不可能に思えるほど大きな溝ができてた。だからこそ他人と親密になることでそれが暴かれることがどうしもなく怖い。

きっと、他人の肩に寄りかかることを知らない人ほど、寄りかかられることをとことん嫌うものなのだと、そう思う。でも勘違いはして欲しくなくて、何も別に人間が嫌いとか、人付き合いが億劫とかじゃない、ただ親密な関係が怖いというだけで。だから、むしろ適度な距離感でのコミュニケーションは好きなんだ。お互いにとって責任が生まれない関係が好き。それから人の優しさに、人間の美しさに、感動することだってある。

そしていつか誰かと親密になることを諦めてる訳でもない。だってやっぱり人間にとって愛ほど人生を生きるに値するものにしてくれるはないと思うから。だから誰かを愛する準備はもちろん、誰かに愛される準備だって怠ってはいけないんだと思う。

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