男女の真ん中で
1.私と性別のこと
昔から、自分はバイセクシュアルなのかな、と思う時がある。
肉体は「female」ということになっているが、眉の濃い顔立ちも、精神的にもやや男性的なのだ。
大人になって医者から、「男性ホルモンが少し多いですね。肥満だとそうなりやすいですが」と言われたので、変に納得した。
子供の頃は大人から、男の子に何度も間違われた。
同じ女の子からは、「男だったら彼氏にしたい」と告白(?)されたことも複数回ある。
女の子らしいドレスやお化粧ごっこにはそんなに興味がなく、ヒーロー・戦隊ものとか、はたらくくるまの本なんかが好きだった。
それから、ティーンズの時も今も、とにかくスカートは大嫌い。
女の子と二人きりで遊びに行くこともあったが、彼女らは私を彼氏代わりにしてたんじゃないかと思う。
私は、自分以外の女の子がかわいいと感じるが、同性でもそう思うようなので、あまり変なことじゃないと思っていた。
でもそれは、どうも女性が抱く、同性に対する美しさの賞賛とか「私もかわいいけれど、あんたも努力してるわね」のような、ナイスファイト的感情からではない。
自分とは異なる、自分が持っていない肉体を、ないものねだりで、かわいいし魅力的だなと思うのである。
女湯でも美しい体の人がいると、「どうやったらあんな風になれるんだろう?」とつい目で追ってしまう。(失礼なので、じっと見ることはないが)
でも、レズビアンの彼女が欲しいかというとそうでもないので、私はあくまでも男と女の真ん中の、「中性的」なヒトなのだろう。
男性も「異性」として、好きだから。
思春期になると、男の子たちからは通りすがりに胸を揉まれ、抱きつかれ、頬にキスされた。
奴らは、思春期のエネルギッシュな性欲にうかされて、女としてのハードルが低い、でも肉体は(男よりは多少)女である私を標的にしたのだと思う。
クラスメイトの男子は、女子より気軽で話しやすい私に、良く話しかけてきた。音楽や漫画の趣味も合うので、毒親の管轄で所持を許されていなかった私に、CDや漫画本をよく貸してくれた。
「お前が好きなバンドのライブ、深夜放送してたから録画しといたぞ」とVHSを貸してくれた幼馴染もいた。
しかし、あんまり仲良くしすぎると「お前ら付き合ってんのか」とすぐ馬鹿にされるので、深入りしない、という距離感だ。
私は、もう一人自分の内側に男がいるように、男ゴコロがよくわかる。
大人になっても、男性と話す方が気楽で楽しい。
年上のおばさんの自慢を聞くより、年上のおじさんのお酌をしながら、趣味や若い頃の武勇伝を聞かせてもらうほうが、ずっと面白い。
一時期、自衛官の婚活パーティーに行っていたことがあるが、それも冒頭で「あっ!私、今日は別に彼氏とか探してません。小さい頃から自衛隊の駐屯地の近くに住んでいたから、自衛隊に興味があるんすよ。今日、皆さんと楽しくお話しできれば、全然いいですぅ♪」と言った方が得だった。
そう言えば、彼らはすぐさま心を開いてくれた。
自衛隊の生活の様子や、辛いこと、いつも考えていること。
綺麗な女には、プライドがあるからとても吐けないようなことを、私には語ってくれた。
「男のプライド」というのは実に厄介で、一生男を苦しめる。
しかし、それがなくては原始的な男性的魅力は損なわれるし、本人の原動力にもならないのだ。
どんなに辛くても、かっこ悪くて弱い姿を、同じライバルである男や、自分の評価者である美しい女の前では晒せない。
「男のプライド」がない私は、それがいつも、気の毒で仕方ない。
2.男女のバランス
男性が己のプライド所以の苦悩に打ち勝つためには、女性からエネルギーをもらうことが大切なんだと、最近になって、ようやく気がついた。
それは多分に、私が夫と結婚したことも一因であるのかもしれない。
しかし、日常的に男性の懐深く入り込んでいる私は、ほんのわずかにある私の女性性にすら、もたれかかるようにして甘えたがる男心を、察していた。
それは、心身の両方を、女性によって「癒されたい」という衝動なのだと思う。
仕事がうまくいっている多くの男性は、特定の恋人や配偶者と良い関係を築いている、という点も、私には興味深い。
女に相手にされない、頼られない男ほど、哀れなものはないと感じてしまうし、実際そうであると思う。
彼のプライドは、特定の女性を守り、頼りにされて自信が付き、初めて維持できるのだ。
つまるところ、男の原動力は肉欲を満たすだけでは不十分で、一番重要なのは、女性の彼に向けられる愛なのだ。
そう考えると、女性は男性よりも有能な「性」であるように思う。
男性を支え、子育てをし、自らも仕事などで積極的に社会にかかわろうとする。
その肉体的、精神的負担たるや、計り知れない。
しかし、どんな時も女性は、美しいものを愛し、敏感に感じ取り、他者とおしゃべりし、笑い、小さくて弱い者を守る。
女性こそが、この広い世界を支えていると言っても過言ではない。
女性の活力は何かというと、それは自分が周囲から愛されていると実感することであり、「安心感」である。
安心感がなければ、女性は恋愛もせず、友達とランチ会や旅行にも行かず、結婚も出産も子育てもできないし、社会に出て働こうとも思わないはずだ。
なるほど、「女性が安心できる社会づくり」とは、そのまま社会全体をよりよくすることに直結するのだ。
3.真ん中の私が考えること
そう思うと、今後、私の乏しい占いの才能を何に生かしたいかと考えた時、やはり「女性を守り、支える」ことに使いたいと考える。
私は前述の通り、女の身に生まれながら、限りなく男に近い所に自分の立ち位置があるように感じていた。
男性は、どうしたら自信を取り戻して元気になって、無駄な生に時間を費やすことなく、己の役目を見つけるのか。
世の中全体をよりよくするためには、こんな中途半端な性を持つ自分でも、何かできることがあるのではないか。
それには、私が直接「特定の女性」として男性を支えるのではなく、同じ女性を支えることで、「男性を支える女性」を世の中に増やすことだと考えた。
それが、一生を終えるまでの私の役目に違いないと、確信のようなものを抱いている。
仕事の関係で、意地の悪いことで非常に悪名高い女性がいた。
彼女は多くの子供を産んで長い休暇を取ったが、母となって心が丸くなるどころか、仕事に復帰してなお、他者にマウントを取り続けていた。
もはや、そんな彼女を相手にする人もほとんどいなかった。
この夏のこと、私が小規模の研修会で、タロットカードを使った自己啓発の研修講師を務めることになった。
彼女は珍しく、その研修会には積極的な様子で、「かいろさんから、色々学ばせてもらいたい」と、直接言ってきた時には驚いた。
もっとも、私は「今年度末で今の仕事を辞める」というのを公言していたので、焦りがあったのだろう。
私は、彼女と全く正反対に子供もいないし、先輩後輩の後押しを受け、重要な役員ばかり押し付けられるがままに、多くこなしてきた。(これで退職するという今年度も、過去最大のやつを押し付けられた!)
彼女は私よりも年長なので、おそらく次は年齢的に自分だと思っているのだ。
と或る書類を彼女から回収した際、短いメッセージが付箋で書かれていた。
「先日の研修会ではお世話になりました。
かいろさんの凄さを知る機会があって良かったです。
ぜひ、機会があればタロットで相談にのってほしい」
私は未熟ではあるが、退職するまでに、なるべく多くの同僚や希望する知り合いを占ってあげたいと考えていた。
それが、お世話になった人たちへ私ができる最後のことであり、ささやかな餞別だと思っている。
しかし、彼女を本当に占ってあげるかどうかは、今もまだ悩んでいる。
もしかしたら、「え、あたしそんなこと書きましたっけ?かいろさん、真面目なんですね~(笑)」なんて、言われてしまうかもしれない。
うまくいけば、積年の彼女の心のブロックを解くチャンスかもしれない。
彼女が変われば、彼女の家庭も変わるだろう。
何より、彼女自身が一番楽になるのではないかと思う。
彼女も「安心感」が必要な人なのだ。
安心できないから、他者を傷つけてきたのかもしれない。
自分が傷つく前に……。
そう思うと、彼女が気の毒な女性に思えてくる。
こういった女性を救うことができれば、私は間接的に彼女に関わる人々も、同時に助けることができるのかもしれない。
性別は、太古の昔から引き継がれてきた役割分担だ。
今、第三の性という言葉や、多種多様な性別にまつわる呼び方が混在して、よくわからないことになっている。
新たな性別の呼び名を作り、さらに枠を増やし、改めてそれに自分自身を当てはめなくったって、別にいいではないか。
どんな性を持っていても、私たちの根底には不変の「男女」という性別があるから、その人のアイデンティティが構築されるのだと思う。
肉体が男でも心は女という人は、「女性」らしくありたいと思うから、苦しむが、そこに必然的に性別の意識は存在する。
本人が望む「女性」に近い役割も果たせるかもしれないが、さらにもっと別の役目も果たせると考えたらどうだろうか。
それは彼にとっては、男性を励ますことだけでなく、女性に寄り添って愚痴を聞いてあげることや、世の中を華やかに明るくすることになるのかもしれない。
そうやって考えると、どんな性を持っていても、社会にかかわるための役割が、もっと自由な発想をもって見えてくるのではないか。
「男女」のエネルギーのバランスが均衡を保つためには、すべての人々が助け合えるはずだ。
真ん中の私は、そう考える。