金運に目覚めた話
金なんてなくても自由に生きていければ、それでいい!
これが、10~20代ぐらいに憧れていた、私のカッコいいと思う生き方だ。
実際、私の友人などはいまだにそんな奴である。
その意識が、すっかり今は変わってしまった。
お金が何よりも大事!!金がなくては生きていけない!!!
D君に出会ったのが、そもそものきっかけだ。
彼については、別の投稿で書こうと思う。
こんな奴には、きっと二度と出会えない。
浅野いにおの漫画からそっくりそのまま出てきたような男だ。
D君は病だった。
心に大きな傷を負い、現実を受け止められないまま生きていた。
そのうえ、私と出会った時には家族までもが体調を崩し、気落ちしていた。
古く由緒ある彼の一族は、或る神仏を信仰していた。その集落は、この東の半島の中でもかなり風光明媚な場所にあり、集落の中心には綺麗な神社があった。
一度訪ねてみたいと思い、ドライブがてら行ってみた。
近くには同じ祭神を祀る寺もあり、貴重な文化財に指定されている彫刻もあるので、気になっていたのだ。
神社にたどり着くと、特にこれといった望みもなかった私は、気の毒なD君と彼の家族の幸いを願った。
静かで空気が重ったるく、なかなか忘れられないような、印象的な場所だった。
しかし、何とも言えない不思議な、晴れ晴れとした心地がして帰路についたのだ。
帰り道、急に「あ、宝くじがほしい…」と思った。
これは何かあるな、と察した。
ご利益だろうか、という確信に近いものを感じて、宝くじ売り場に直行すると、思いがけず大安吉日だった。
私は一番安い宝くじを10枚購入した。1枚100円のやつだ。
そうしてそれは、予感通り当選してしまった。
1100円、当たったのだ。
神様はいるんだなぁ、と思った。
そして、こんなご利益をくださった神様だが、私が願ったD君とその家族の病気治癒や家内安全はどうだったのだろう?
それは、やはり無理な願いだったのかな…という一抹の不安が残った。
一方的に縁を切られてしまったので、D君がどうしているのかわからないのだった。
(何せ、彼は病んでいるのだから…)
つながる、お金との縁…
さて、一度宝くじが当たったのは良いが、たった1100円である。
当初は、それを元手にさらに高額当選を…という気はなかった。
しかし、ある日の仕事帰り、またまたピンと来てしまったのである…
「宝くじ欲しいな…」と…
再び宝くじ売り場に向かう。
自宅から近い、同じ売り場である。
そして、大安吉日ののぼり。ここまでは同じだ。
宝くじ何があるかな、と見ると「ドリームジャンボ」の文字…
気が付くと、10枚購入していた。
宝くじを手にした私は、今度は今までなかったような強い感情に襲われた。
「こうなったら、どうしても宝くじに高額当選したい!!」
宝くじを保管しておく場所、当たりやすい方角、色々ネット検索してみた。
しかし、どれを試しても心底納得がいかない。
他に当選する方法として、決定的なものはないか…
「…あっ、あるじゃん。宝くじに当選する寺があるじゃん」
実は地元に、宝くじに当選するご利益をウリにしている寺がある。
宝くじに全く興味のなかった私は、一度だけ訪れてみたものの、ありがたみを感じていなかったのである。
今こそ、あの寺にすがる時である。
というか、あの寺しかない!
お寺のホームページを見ると、2日後に「ドリームジャンボ宝くじ当選祈願祭」なるイベントがあるではないか。
なんだこれ、マジか!
よし行こう!!仕事を休んで行こう!!
私のお金に対するモチベーションは、急激にMAX状態だった。
お金への意識が、かねてから興味のあった仏教とのご縁へ…
その後、私は全3回の宝くじ寺「ドリームジャンボ宝くじ当選祈願祭」に参加したのみならず、お守りやご住職の著書を購入。
今でも毎朝、阿弥陀如来のいらっしゃる西方浄土に向かって手を合わせ、祈りを捧げている。
(何故なら、まだ宝くじの結果を見ていないからだ。金運の良い日に見れば当たるらしいので、私は宝くじを来月まで「寝かせる」つもりだ)
さらに、ご住職の読経や説法に感動し、直接メールを差し上げるに至った。
ご住職はご住職で、参拝客からの「ご利益なんて嘘だ」「胡散臭いだけの寺だ」などという心ないクレームに辟易していたようで、グーグルに同じような口コミを書いていただけないかと頼んできた。
私は身バレを気にしつつ、すぐに書いて差し上げた。
ここで断ったら絶対に罰が当たる…!
ましてや、仏に仕える僧侶の頼みだ…絶対に従わねばなるまいと思った。
宝くじ当選という、ともすると煩悩直結のご利益をウリにしているものの、ご住職は非常に熱心に仏教を学んでこられた方で、説法はしっかりした仏教の教えだ。
占いの勉強ついでに密教の知識も少しかじっているのだが、その読経も声色大きく美しく、力強い生命力を感じた。
本当にこのお坊さんは、お経が上手い。
初めて聞いた時、目頭が熱くなり、視界が開けるような、不思議な感覚に襲われたほどだ。
宝くじ当選を祈っていたら、いつの間にか仏教徒になっていた、という状況を生み出そうとしている寺なのだ。
また、他の宗派の教えも気になってきて、最近は毎朝、日蓮宗の僧侶の配信を見るのが日課である。
私は冗談交じりに、「宝くじに当選したら、皆さんに金券とか配っちゃいますからね!」と吹聴して回っている。
しかし、宝くじ寺のご住職曰く、宝くじが当選したら、自分の知っている人たちだけでなく、見知らぬ人たちにも施しができるように金を使った方が良いとのことである。
そんな風に、エネルギーである金は世の中を回って、巡っていくのである。
もっとも、私自身の人生に与えられている使命や生きている意味は、すべて自分ではなく他者のためなのだから、そもそもそうしたいとは思っている。
これについては、今後投稿するし、それがnoteを始めた理由でもあるので、ここでは伏線を張っておきたい。
お金に意識が向くと、今まで関心がなくて手を付けなかった投資信託にも興味がわき、職場の隣の席の人に4冊もお金の本を借りた。
そして、お返しに宝くじ寺のご住職の著書を貸してさしあげた。
今では、貯金は投資で積極的に増やそうと思っている。
もうすぐ退職しなくてはならないのだが、退職手当が少ないことにも悩むようになった。
お金の話が下品だ、というのは、間違った認識なのだそうだ。
日常的にお金の話はした方が良いし、話せば増やすための情報も集まってくるのだ。
考えてみたら、子供の頃から貧しくて、学びたい大学にも行けず、行きたい場所にも行けず、欲しいものも手にすることができなかった。
そりゃ何のせいかと言えば、お金のせいに他ならない。
どうしてこうも、私の身内同士は仲が悪くて、離れ離れなのか。
金銭トラブルのせいである。
私は身をもって知っていたのに、何故か認めていなかった事実。
お金さえあれば、人は幸せなのである。
自由に生きるには、自由よりも先にお金を手にするべきなのである。
多くの人が、勘違いしているのだ。
今こそ、私は声を大にして、胸を張って言いたい。
お金が好きです!お金に愛されたいし、愛したい!
そうなれば、私の小さな夢だって、近い将来きっと叶うに違いない。
こんな私の生きている意味もようやく見つかるはずだ。