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2025年成人の日の誓い
冬晴れの成人の日。
息子は朝から一張羅に着替え成人式に向かった。
区の成人式、卒業校の成人のパーティへ。
筋トレが趣味の息子はなかなかスーツ姿がキマッテいる、親バカでいい。
風邪を引いて引きこもりの連休、ガシガシ見続けやっと«寅に翼»全130話を見終えた。
戦前から戦後の法曹界の流れ、時代の変化、家族の在り方、女性の働き方、世の不平等、、、等々についてまるで自分ごとのようで一気見だった。
«虎に翼»を見ていて思いを更に深めたのは、«子供は親の言うことは聞かなくていいい、親の言うような人生を歩む必要はない、自分で考え自分で責任を取るべきだ»という思い。
仕事をしつつ子供を20年育て、多忙にて記憶にないことが多い。認知症のけがあるのか、悪いことは忘れてしまうタチのお陰か、私は子育てにはなんの苦労もなく、子供達はずっとたくましく、天真爛漫に育ってくれたと思っている。
これは子供たちを、幼稚園から中学生まで私の代わりに育ててくれた母のおかげだと思う、感謝しても感謝しきれない。
年越しの台湾で、娘から«ママは今まで子育てもしながらよく働いてきたから、もうゆっくりしていい»と言われた時はうれしかった。
子供たちが小さい時は、私も«ああなって欲しい、こうなって欲しい»と思う時もあったが、次第に学び、«子供の人生は子供のもの、私の代理ではなく、私の思い通りにしたいとも思ってはいけない»と気づいた。
子供たちは、どこで何をしていても、生きて家に帰ってくればそれでいいと思うようにした。
生きていてくれればいい、それだけが望みとなった。
アドラー心理学の«課題の分離»を学び、それは誰の課題なのか?を問えるようになったことにもよる。
そんな風なので、私は子供が受験期でも海外旅行に行っていたし、受験もほぼ放置で全部自分たちでやらせた。
それをかなり多くの人から«もっと子供の面倒をみろ»とお叱りを受けてきた。その方々からの善かれのお叱りを«私は私、子供は子供»と耳に蓋をした。
そんな風に育てた娘は、どういうわけか?まるで私がやりたかったもう一つの人生を生きている。私は今の職業のため、多くのできなかったことがある。あんな人生も経験してみたかったというもう一つの人生を娘はやっている。息子もそうだ。
子供の人生を親の思い通りにしてはいけない、と思っているのに、子供たちは私の想像を越える私の憧れの人生を生きていくれている。
20歳までの私の子供達は最高だ。
今まであちこちから私の子育ては非難されてきたが、私は大満足だ。
これからもいろんな困難があるし、善かれを言ってくださる人もいる。
でも、誰に何と言われても私は私の信じた道を行く。
そう誓った2025年成人の日。
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先日、仕事でへとへとに疲れた時、ご褒美で食べました。最高でした。