【はじめての自己紹介】生い立ちから将来まで
皆様、こんにちは。
佐藤黎司(さとうれいし)と申します。
noteをご覧いただき、ありがとうございます。
どんどん成長して、内容を更新していくつもりですが、
まずは今の私の自己紹介を読んでいただけると嬉しいです!
0.リーダーになる期待を背負って誕生
私の名前の「黎司」
この名前、30を過ぎて生まれた長男への両親の愛情と期待を感じるとても好きな名前です。
黎は黎明という単語で使われ、夜明けという意味です。
司は司会などで使われ、リーダーの意味です。
私は1999年12月26日という、もうすぐ2000年という頃に生まれました。
そして、2000年代の夜明けのリーダーになってほしいという思いで「黎司」と名付けられました。
ちなみに名字の佐藤は母親の名字ですが、これはじゃんけんで3勝1敗で母が勝ち取ったそうです。約30年も前の話だと考えると先進的で、常識にとらわれない柔軟性を感じます。
リーダーになるんだ、常識は自分が作っていくんだという意識を持てるとても好きな名前です!
1.原点となった少年時代
私は北海道札幌市で生まれ、父の就職を機に新潟に移り、高校卒業まで新潟で育ちました。
大学の先生である父、父の就職まで一人で家計を支えた母、そして2歳下、6歳下の弟という5人家族です。
父も祖父も曽祖父も学者という一家なだけあって、
「考えること」を小さい頃から求められて育ちました。
しかし、勉強を詰め込まれたわけではなく、
(というより、父は九九のような暗記する勉強法が大嫌いだったこともあり)納得できない勉強はしなくていいというような自由な環境でした。
地元の小中学校に通い、最初は学校に馴染めず不登校気味だったものの、
母の影響で始めた野球部に入ってからは次第に周囲に馴染みました。
(父は1塁から左回りに走らなくてはいけなく不自由だからという理由で野球が嫌いです笑)
野球は残念ながら下手でしたが、
基本的には真面目で、大抵のことは卒なくこなすうえ、
野球部ということもあって、活発な友達とも仲がよかったので、
クラス代表や委員長をたくさん経験しました。
そして、私の原点とも言える、
東日本大震災が起きたのが
小学5年生の頃でした。
震災で福島から避難してきた友達ができたり、
震災翌年の正月に父の
「今、見に行かなくてどうする!」という一声で
被災地を見にいったり。
世の中に貢献したい、
そのために成長して、力をつけようと
考えるようになったのが、このときでした。
自分の成長のためには、自分より高いレベルの人と交わる必要があると考え、
県内No.1とされる高校にチャレンジしました。
中学校時代は学年20位ほどと決して成績が飛び抜けていたわけではありませんでしたが、
努力が実り、無事に合格することができました。
なお、父はこの高校が嫌いで、
合格を報告したときは機嫌が悪そうでした笑
2.もがき続けた高校生活
東大に現役で合格したと聞けば、
ずっと成績が良かったと思われるかもしれません。
しかし、私の高校入学後のテストは学年360人中300番台でした。
ここが自分の成長するチャンスだと感じた私は、
東大に行くと決めて、
しかもそれを周りに宣言しました。
(当然のようにかなり馬鹿にされた記憶があります笑)
目標が決まれば、あとはやるのみ
部活以外の時間はほぼ勉強といっても過言でないくらい勉強に時間を費やしました。
平日は
5:00 起床1時間勉強
朝ご飯を食べるなど支度をして
7:00頃から野球部の朝練
学校(1年生は練習準備のため昼休みもありませんでした)
放課後 部活
21:00頃 帰宅
食事などしながら、風呂でもトイレでも教科書を離さないで勉強
22:00-23:00 勉強して就寝
休日も基本的に一日練習か試合でしたが、
部活以外の時間はひたすら勉強
努力することしか自分にできることはないという思いで、
必死に課題を見つけ、解決するという日々でした。
その甲斐もあって、1年生の終わりには学年30位、2年生では文系でトップ10、3年生では文系でトップ3を争うくらいにはなりました。
塾も嫌いな父の方針もあって、塾には通わず、
そのおかげで、自分で目標を設定し、現在地を把握し、
目標に至る課題とやるべきことを考えて実行することを学べた
非常に重要な時期だったと思います。
部活も波乱万丈。
高校1年の冬に膝の靭帯断裂。
復帰したと思ったら2年の夏前に、
右手の人差し指付け根を粉砕骨折して、
結局競技復帰できませんでした
(今でも指曲がらないです)。
それでも、復帰を信じて朝練は人より早く来て、
みんなが来るまでに自分のトレーニングを済ませておき、
みんなが来たら練習の手伝いをしていました。
その他にもデータ分析をしたり、
学生コーチのような役回りで、
練習時代には監督もやらせてもらったり。
おかげさまでチームという視野で野球を見れるようになったり、
モチベートすることの重要性を学んだりと素晴らしい経験でした。
受験は入学当初に立てた目標通り、
東大にチャレンジしました。
仲間とともに切磋琢磨しながら、
課題設定と努力を繰り返して勉強を進めました。
とはいえ、もともと学年300位以下だったこともあり、
模試ではE判定以外出たことがないまま
担任の先生も落ちると思うけど、
どうぞお好きにというような感じでしたが、
やるしかない、最後にはなんとかすると東大を受験。
結果、合格最低点と0.6点差というギリギリでしたが、
見事合格しました。
入学最初の試験で300位をとらなかったら、
遠慮して現実的な目標にしていたら、
馬鹿にされて目標を諦めていたら。
目標設定と意思の力の重要性を感じる3年間でした。
ちなみに、何度目ましての父は東大が本当に嫌いで、
何度も東大がいかに悪い大学であるか説明されました笑
3.1人での限界とチームの強さを体感した大学生活
大学に入り、地元新潟を離れ、
東京生活がスタートしました。
大学では、野球部の主務(マネージャーみたいなイメージです)も少し迷いましたが、
再びプレーヤーになりたいと、
合気道部に入ります。
しかし、1年生の6月。
100本稽古という先輩に
100回投げ続けられる稽古で
受け身に失敗した私は、古傷があったのもあって、
膝の前十字靭帯を断裂。
その後は1年近く稽古ができないなか、
毎日松葉杖をついて、道場に通い詰め
見学しながら、木刀を振ったり、
師範方から教えていただいた
怪しげな練習をしてみたり笑。
主将、副将以外では私だけが二段になるほど、
一生懸命に取り組みました。
同時に仲間の力を感じられた機会でもありました。
足が使えなくてもできることを教えてくれた
師範の皆様や先輩方、
苦しみに寄り添ってくれた同期のみんな、
下手な先輩なのに学ぼうとしてくれた後輩のみんな
全員の支えがあって結果が出たのだと思います。
3年生のときにはコロナ禍の影響で、
新歓活動ができなくなると
Youtubeチャンネルの開設、ブログの開設、
旧Twitterの投稿内容刷新などを
先輩、後輩、同期に対してプレゼンしながら取り組みました。
最初は同期9人のうち、賛成寄りだったのが1人だけ。
猛反対を受けながらも、個別でも全体でも話して、
最後には全員に賛成してもらって、実現していきました。
反対していたメンバーも、積極的に動画出演したり、
ブログを書いてくれたり。
今の合気道部チャンネルを見ると、草創期とは比較にならない
洗練された動画が上がっていますが、
今があるのも、何もない状態から協力してくれた
仲間がいたからだと思っています笑
例年よりは少なかったものの、6人ほど入部してくれたり、
先日Youtubeチャンネルが登録者1000人を超えていたりと
努力が成果に結びつく楽しさを知ることができました。
学業面では相変わらずの真面目さのおかげで、
人気の高い刑法ゼミに参加できたのですが、
そのゼミのレベルが高く(卒業式でみんな表彰されていてびっくりしました)
人生で唯一努力では超えられないほどの
壁を感じました。
このゼミでは、自分ひとりでできることの限界を知ることができ、
仲間と一緒に得意な部分をかけ合わせたりしながら
勝負しようと感じることができました。
学業と部活の傍ら、あるスタートアップ企業の立ち上げ期に
インターン生として参加する経験もし、
起業というものを意識し始めたのも大学生のときでした。
4.エンジニアとして働きつつ、起業を志したきっかけ
東日本大震災のときの、貢献したいという思いがあったことから、
もともとは国家公務員志望でしたし、
法律の勉強が面白くて法曹もありだなと思って
予備校に通ったりもしました。
しかし、改めて自分のやりたいことを考えたときに、
人々の生活を支え、さらにそれを良くしていきたいと思い、
今の時代の基盤であり、良くしていくパワーもあると感じた
IT業界で就活を進めました。
やるからには、仕組みを理解したいと考えて
エンジニア職で就活を行い、
3年後、5年後を考えたときに
一番成長した姿を描けると感じた会社に
就職しました。
自由に意見を言える文化が性にあって、
楽しく仕事をしていますし、
内製システムの開発プロジェクトに参加したり、
後輩のメンターをやったりと様々な機会をいただいております。
一方で、本当にこれが自分のしたい貢献なのか、
もっとやれるのではないかという思いもあり、
友人に紹介していただいて、
社会人と両立しながら事業を立ち上げた
経営者の篠原継之助さん(以下つぎさん)と
出会いました。
つぎさんやつぎさんの周囲の方とお話したり、
つぎさんにアドバイスをいただいて自分と向き合う時間を作ったりしたことで、
自分が本当にやりたいことがみえてきました。
それは
「各々が自分の目的を持って、目的に向かってチャレンジしている社会にすること」
「そして、チャレンジし続けている世界中の仲間と一緒に、
社会課題、世界課題に取り組む仕組みを作り、
リーダーとして関わること」
です。
👇考えの背景など詳細を書きましたので、
こちらもぜひお読みください!
自分が本当に求めているものに気づいたことで、
まずは自分でチームを作り、チャレンジして自分自身が幸せになり
挑戦したい人のロールモデルになろうと決意し、つぎさんを師匠として
事業の立ち上げを学んでいます。
5.これからの展望
世界課題に取り組んでいくという
最終的な目的は持ちつつも、
まずは自分が結果を出してモデルとなる、
そのために以下の目標を設定しています。
2026/10/1 経営者として月収100万を稼ぐ仕組みを作る
一人前の経営者として、起業するロールモデルになる
2028/10/1 年収3000万円
家族まで幸せにできる存在になり、
黎司のようになりたいと思われる存在になる
2030/10/1 年収1億円
自分の大好きなこと
(アルビレックス新潟、スピッツ)に
作り手として関わる
こうして、自分の目標にチャレンジし、一つ一つ叶えていくことで、黎司のようになりたいとチャレンジする人が増え、みんなが成長することで、どんどんできる「貢献」を大きくしていきます!
私は、みんなの目標になれる、
人に影響を与えられる存在になり、そういう存在であり続けます。
そのために、
「目標にチャレンジしている仲間たちと、
社会課題に取り組む仕組みを作る」という
自分の最終的な目的に向かう目標を更新し、
チャレンジし続けていきます!
自分たちのチャレンジを見て、
まだ見ぬ次世代も含めてみんなが
自分の未来を自由に描き、挑戦し、
人生を自分の手で幸せにしていく。
そんな世界になれば、どんどん良い世界にできると考えています。
そのために、高校時代や大学時代よりも必死に努力して成長し、
どんどん目標を具体的にしながら、叶えていきます!
6.おわりに
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
見かけたら、ぜひ声をかけてください!
お会いしたときに
よい刺激を与えられる存在になるべく
努力し続けます!
一緒に頑張りましょう💪
また、いつか!!