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ミス・コリアン 作・樋口芽ぐむ

 ミス・コリアンは鼻つまみ者。口を開けば施設の介護職員はダメだ、ニホンジンはいじわる、男が嫌い女も嫌い。
 
 ミス・コリアンがどういう経緯を経て日本で暮らすことになったのか誰も知らない。彼女は話さない。話さずともぼんやり知っているが。
 
 施設の利用者も職員もいっしょに昔の歌謡曲や童謡を歌うレクリエーションの時間、歌詞カードを渡されてミス・コリアンが憤慨、「ニホンゴなんて読めん!」
 
 入浴の順番が来て脱衣室に案内すると、ミス・コリアンは常に肌身離さぬ帆布の大きなバッグから亀の子ダワシを取り出した。
「血行がよくなるでコイツで体を洗え」
 彼女の肌は荒れている。好きな物を好きなときに喰う、つまり施設を利用しない日の午前にバターたっぷりのトーストを二回喰い、昼飯には訪問ヘルパーにあつらえさせた揚げ物、昼飯が済んで煎餅だのスルメだの、夕飯は肉中心、就寝するまでにアイスクリームや菓子パン、だから全身を綿飴のような脂肪が覆い、栄養の偏りによる肌トラブルが湿疹、赤み、乾燥などになって表れている。その肌を亀の子ダワシで擦れば状態の悪化は必至。
 下っ端の職員、リーダー格の職員、看護師、はては施設長になぜか施設の事務員まで総出で翻意をうながすが、焚火にガソリンを噴射の趣でミス・コリアンがわめく、「なんでワシにいじわるする!」
 詮方なく承諾、湯上りの彼女の肌には星空のごとく擦過傷が瞬き、膿まないよう薬を塗られ身につけた白いTシャツには、まだ空気の冷たい冬の朝の紅梅のごとく血痕が滲む。
 そななこと気にせず彼女、細い目をゆるませて「いい気持ち。極楽極楽」
 
 ミス・コリアンには一粒種の息子がおり、彼はダフ屋のような埃っぽいジャンパーに中太のズボン、ダフ屋のようなキャップを目深に被り、家まで送迎に来た介護職員に会っても挨拶ひとつしない。
 けれどミス・コリアンは可愛くて仕方ないようで、五十歳に至る彼を人前でも猫なで声で「〇〇ちゃん」と呼ぶ。
 
 昼休憩になると職員らは弁当を食べたりカップ麺を啜りながら利用者に関する情報交換、「今日は表情が優れない」「いつもより明るい」
 ミス・コリアンに関しては皆の口ぶりに一層熱がこもり、理不尽に叱られた怒鳴られた、パンツがおしっこでびしょ濡れ、飯が少ないから大盛にしろと無理難題、施設屈指のトラブルメイカーであり、皆が手を焼いているのは間違いないけれど、だから嫌われているかと問えば難しい。手を焼かされた分、気に掛かる。むろん機嫌の悪いときには本当に憎たらしいのだが。
 
 下っ端介護職員の為吉は二十代の半ば、就職氷河期に大学を出たけれどハードな営業職に就いて早々退職、数年社会と交わらぬ時期を過ごして一念発起、施設にパートとして勤務、この為吉をミス・コリアンがなぜだか気に入る。
 為吉はドジだし見てくれがよくないし、男としてはいかにも頼りなく、ただし利用者には優しい。
 そのせいかミス・コリアンをして彼は「ニホンジン」でもなく「男」でもなく「庇護してやらねばならない薄らバカ」と認識したらしい。
 もっとも庇護と言ったとて、何年前に購入したのか不明の飴玉をこっそりくれたり、「冷たいのって言っただろ!」と温かいお茶を運んできた彼を怒鳴ったりという感じ。
為吉はミス・コリアンが怖いけれども嫌いではなかった。
 怒鳴られたところで命まで取られるわけでなし、また血のつながった噓つきの祖母にどこか似ており、他の職員が手を焼いているのに、為吉が「わがまま言わんとトイレ行こ」と促すと素直に従う場面などは、暗い優越感に浸った。
 
 ある日、為吉がミス・コリアンの入浴介助を手伝っていると、どういう記憶の動きがあったのか、彼女が落ち着いた声音で言った。
「娘の頃に河原で乱暴されてな。泣き叫んだけど周りのニホンジン、だぁれも助けてくれなんだ」
 言葉を失い、ミス・コリアンに慰めを欲する気配はなかったけれども、ひどく傷ついている雰囲気はあって、でもどういう言葉を掛ければいいのか分からない。
 結局「大変だったね……」とマヌケな言葉が口から出て、ミス・コリアンは目を瞑って返事をせず、為吉は彼女の背中をひたすら亀の子ダワシで擦った。一生懸命に。
 
 ミス・コリアンが亡くなったのは突然で、元から窮屈なシートベルトを大人しく装着する人ではなかったけれども、○○ちゃんの車の助手席にもシートベルトを締めずに乗り、病院へと向かう道中、交通事故に遭ったのだ。
 報せを受けて職員らはショックでへこみ、それはどの利用者さんが亡くなったときも同一なのだけれども、手を焼かされて憎たらしく、でも本気で憎むことはないミス・コリアンは、まだまだ長生きすると呑気に思い込んでいたのだ。
 昼休憩で彼女に関する思い出話をしたけれども空気は弾まず、三日、一週間と経つうちに彼女の名前は誰の口からも出なくなった。
 あれから四半世紀以上が経ち、為吉もあの頃の○○ちゃんと同年代となって、たまに、不意に、どうしてかヒマワリじみたミス・コリアンの笑顔を思い出す。
 それから漿液を伴って、鮮やかに細かく無数に散る、赤い傷。

BY 樋口芽ぐむ