【共作】行く末来し方仕舞い方 その伍 担当・三太
3本目のレポートを送る前に、文章の依頼をしてくれた方に「本当にこのままの路線でいいのですか?」と、一応の確認のDMを送ったのだが。
ぜひぜひ、このまま突き進んでくださいとの、なんともどうしていいのか分からないような返信だった。
それこそありふれた出逢いと別れの話にしかならないし、当事者で無い人が目にしても「ふーん……、で?」となりそうなものだと思うのだが。
かといって、小説で書いているようなバリバリの創作話に勝手に切り替える、ということも妙なプライドが邪魔して出来ないし、とりあえず、そのままの流れで書いてみることにする。
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いわゆる淫乱サウナでの発展場デビューを済ませた私が、一年ほど、それでも両手の指の数に足りないほどのサウナ利用をこなした頃か。
おそらくは10数人(そりゃ、一晩に2人、とかもあったのだよ、当時は)の同性と肌を合わせた頃、コトが終わって初めて定型文で無いやり取りを交わした人が、『その人』であった。
「良かったら、この後ビールでも飲まない?」
「え、いいんですか……?」
そのサウナの一角に、軽食やアルコールも楽しめるバーのようなものがあったのだ。
2人ともサウナのガウン姿のまま、バーのカウンターで生ビールをぐいっとあおる。
ここで『出来た』人との『初めてのまともな会話』は、それこそ通い始めて一年近く経ってからの、この場所でのものであった。
「どこから?」
「あ、隣県の○○県です」
「飲み屋さんとか行ったことある?」
「地元にあるのは知ってるんですけど……」
「行きつけの店があるから、今度一緒に行ってみようか。連絡先教えてくれる?」
当時のことであるから、おそらくは家の直電か、かろうじてポケベルの番号か何かを伝えたのだろうか?
あまりそのあたりはよく覚えてはいないのだが、少なくともその場の会話の中で『大丈夫な人』との確信を得た上でのことだったのだろうとは、一応自分を信頼しているのだが。
翌月ぐらいのことだったかと思う。そっちに行くから一緒に飲みに出ようとの誘いをもらい、発展サウナに足を向けたとき以上の『ドキドキ感』を持って、こちらの『ゲイバー』へと足を踏み入れることになる。
そこで知ったのは『ゲイバー』と呼ばれるその手の店は決して女装したママがメインでは無く、まあ、それなりに『普通の格好をした』『マスター(ママ、と呼ばれることは確かに多かったのだが)』がいる店だったということだ。
客同士、客と中の人との間でもときおりいわゆる『オネエ言葉』(テレビで見ていたそれとは、また違う部分も多かったと記憶している)が入り混じるものの、いわゆる『普通の(ノンケの、という意味合いでの)』会話とそう中身が違うものでも無い。
あるときはわいわいとカラオケに興じ、あるときはマスターと数人の客とでしみじみとした時間にひたる。
そして何よりも当時自分が顔を出していた街中の『普通の』スナックに比べ、とにかく『値段が安い』ところであった。
そんな中、サウナで知り合った人がこちらに来る度の一緒の顔出しから、だんだんと自分1人でもそれらの『ゲイバー』に顔を出すようになり、数ヶ月が過ぎた頃だったか。
私を飲み屋に連れ出してくれた方の友人から、ある夜にいわゆる『お誘い』を受けることになる。
その時点での私は、周囲からは県外で見つけた私を連れてきた人の『相方さん』として認識されていたらしいのだが、その辺りのこの世界の機微がまだまだ分かっていない私であった。
まあ30手前のそれなりに健康な男子として、その『お誘い』にホイホイ乗った私ではあったのだが、結局その人と6年と少しの間、これはまさに周囲から『相方』として見られる『付き合い』をすることとなった。
互いに家族や家庭があり、サラリーマン同士(私の方は『狭義の』それだったろう)だった当時、夕方、早めに仕事を切り終えてバスセンターなどで待ち合わせる。
忙しいときには居酒屋で1時間ほど飲んで、そのままお疲れ様と互いにバスで帰宅する。もう少し時間があれば、それこそ『ゲイバー』へと繰り出し、金曜日などは二軒三軒と廻ることも多かった。
酒を飲んでの馬鹿騒ぎ。
帰りに一級河川の河原に座っての愚痴話。
土曜日にはその人の車で向かった昼間のラブホのフリータイムを使い倒す。
そんな日々が、自分が20代の終わり方から30代の中庸に、11才年上のその人が40代半ば過ぎになるまで続いていった。
生育歴、家族のこと、若いときの思い。今の仕事のこと、将来のこと、やりたいこと。
ものすごくたくさん話して、たくさんの話を聞いた。
ラブホに朝から行って、夕方近くまでずっと話し込み、シャワーだけを浴びて帰ったことさえあった。
互いに束縛を嫌う(というか、言葉としての意味では『セックスだけで繋がっているわけでは無い』という意味合いも大きかったのだが)、いわゆる『ばら売り』関係であり、相手が誰と出来ようが構いもせず、さらには今さっきまで相手が『やっていた』人とその後に3人で一緒に飲む、なんてこともやっていた自分達であった。
そのとき3人一緒になって飲んだ店のマスターが『ごめん、あんた達になんて言葉をかけていいのか分かんない』と言ってきたことは、今でも強烈に覚えている。
今でこそ『オープンリレーションシップ』などという言葉が少しは広がってきているのかもだが、当時においては『セクフレ』『ヤリ友』『雨降り用心の置き傘カップル』などと、表でも裏でも色んな呼び方をされていたように思う。
それでも『そこ(身体)以外で繋がってる』という確信はあったのだと、確信があったと思っていたのだと言うことは、少なくとも私にとっては『本心』であったと思う。
そんな『相方』と、私は突然、死に別れることになる。
金曜日に飲み屋に繰り出した。
土曜日にラブホに行った。
月曜日にいつもかかってくる電話が無かった(そのときはPHSを私が持っていた)。
火曜日に心配になって、その人の職場に電話を入れた。
まだ電話交換の人がいた企業だった。
その電話口で伝えられたのは『○○は、日曜日に亡くなりました。通夜が今晩です。斎場は××になります』
頭を殴られたように、というのはあのときのようなことを指すのだろう。
私はとにかく急いで家に帰り、喪服に着替え斎場に向かっていた。
なんの偶然か、一番前の席に案内され、少しだけ見知っていた彼のご家族に頭を下げる。
最期の対面を、と棺の上から覗き込んだ彼の口と鼻の周りに、おそらくは病院で通されていたチューブの跡を見て、私は人目もはばからずに号泣してしまう。
その日、家にそのまま帰ることが出来ず、黒服のままに2人の馴染みの店に顔を出した。
周りが驚く中、ひたすらに泣きじゃくる私の背を友人達が支えてくれ、翌日の葬儀には数人で顔を出すことが出来たように思う。
当時、小説を載せていた自前のサイトのコラムに(うろ覚えではあるのだが)このような文章を書き記した記憶がある。
「よい天気の中での葬儀でした。彼の魂も、まっすぐ昇っていってくれたのだと思います」
それから彼と付き合ったと同じ期間、本当にたまたまではあったが、私は誰とも『付き合う』関係を見いだせないでいた。
地方都市ではなかなか相手が見つかる確率が低い、その分長続きするやも知れない、というのは昔も今も変わらない傾向とは思う。
そんな中、その後に『付き合った』人達とはみな、行きつけの『飲み屋』で知り合うことが出来たのは、自分にとっての小さな『幸せ』なことだったのではと、今頃になって思い返す『私』なのであったのだ。
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本当に、本当にこんな文章で良いのだろうか?
このレポート?を依頼してくれた方のハンドルネームは『宇宙人のアカギツネ』さん。
ググってみると、それなりに色々なところに顔(では無いが、狐のかぶり物をされているので流行りのVTuberとやらかも知れない)を出し、なにかちょこちょこと社会的な調査をされてるような人らしい。
いわゆる大バズりまでの投稿は無いが、まあ中程度のネット上での広がりは目に見えてるお方であった。
自分で書いてても何かじめっとした感じで終わってしまうのだが、すでに当時から20年以上も経った今では『若かりし時代の思い出の大切な、そして暖かなものの一つ』とはなっているのだが、はたしてこれが今どきの世相に『受ける』『バズる』のかはまったく分からない。
そしてこの私は、そんな思い出を両手両脚に抱えたままで、これから先もなんとか細々と『生きていきたい』とは思っているのだが。