あとがき 三太
私は前世紀の終わり頃から数年間、いわゆる『個人ホームページ』(実際には個人『サイト』であったのだが、当時は『ホームページ』という言い方が多数を占めていた)という奴で、自作のゲイ向けポルノ小説を公開してきた。
その後、当時付き合っていた相方との死別を上手く乗り越えられず、サイトの運営をそれこそ10年単位で放り投げていた時代がある。
その間も小説そのものはちまちまと書き続けていたのだが、どうにも『ネット上での他者との交流を進めていく』ということそのものがメンタル的に出来にくくなっていたのだと思う。
ようやく2018年になって、新たにサイトを構築しなおそうと思い直し、今に続くサイトや小説を発表できるプラットフォームなどを使うようにとなってきた。
サイトそのものや掲示板、SNS、顔を知らないままのメールのやり取りなどのその中で、いや、基本は文字としてのやり取りをメインとするネット世界の中で、と言い換えたがいいのだろうが、一つだけ気を付けていることがある。
そしてそのことは、私自身の生き様を構成する様々な事柄や記憶、自らが律する行動の中での大きな部分を占めるものでもあるのだが。
それは『何事に対しても意見・考えを表明するときには、自分事としての考えや判断を行う。評論家の立場に自分を置かず、出来れば自らの行動に繋げる』ということである。
何を当たり前のことを、と思われることかもしれない。
ただこのことは、昨今のSNS上での流行りの物事への様々な意見のなだれ込みやマスコミで流れるよしなし事を見るにつけ、それなりに『世に必要なこと』では無いかと思っている。
政治について、医療について、福祉について、もちろん、ポルノについて、創作について。
日々色々なことが起こっていくし、誰かがそれについて関わり、言葉を発し、情報をばらまいていく。
『自分だったらどうするんだろう?』
『目の前で同じことが起きたとき、どうすればいいんだろう?』
『今はそれが自分の手の届くところには無いけども、もし手に入ったときに自分はそれをどう使うんだろう?』
日々それらの出来事、人の在り様、誰かの考えに接しながら、自分が、自分が、と問うていく。
その果てにこそ、自分なりに福祉や介護、災害時の避難所のこと、町内で関わらせていただいている高齢者のこと、そして創作についてのことと、まさに『今』、自分が『どう関わっていくのか』の方向性を得ることが出来ているのだと思いたいのだ。
ただ、私がこの言葉を思うとき『自分事』の中の『自分』というものは、『他者』との『同一性』を考えるよりも、どちらかと言えば『異質性』の方を打ち出しているという気はしている。
私が思う『私』と『あなた』が思う『私』とは、どこかが違い、ズレ、それは考え方や思考の順序方向のみならず、もしかしたならば見えている『姿』さえも違っているのかもしれない。
今回、樋口芽ぐむさんとのこの共同共作作品を取り組むにあたって、自分自身がその『私』が周囲から『どう見えているのか』『周囲からどう期待されているのか』という部分と、私自身が定義している『私』の違いを、大きく感じることになった。
芽ぐむさんにとっての『私』は、実にずぼらで、約束が約束にならないふがいの無い年上と映ったに違いない。
そんな『ずぼらな私』を見捨てずに、ここまでお付き合いいただいた芽ぐむさんには感謝と尊敬しか示す言葉を見つけることが出来ない。
そんなちっぽけな『私』こそを、それこそ今後の『自分事』として見つめ直していくしかないこともまた、分かってはいるのだが。
改めて、感謝と尊敬を。
樋口芽ぐむ氏に。
すべてのこの文章を読んでくださった方々に。
58才の秋に 三太