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『宝石の国』への思いの丈

『宝石の国』の単行本最終巻を読み終わって数日経ったが、フォスたちのことを考え続けている。

全員幸せになって大団円チャンチャン、という結末の物語は「あ〜面白かった」とポップコーンの箱を捨てて映画館を出ていける気分なのに対して、単純なハッピーエンドとはいかない結末の物語は私の心の中に残り続ける。
私は後者が好きだ。物語がすぱっと終わって置いていかれるよりも、ずっとその世界のことを考え続けていたい。『ぼくらの』や『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ』なんかが近い。

『宝石の国』との出会いはもう今はチェーンの大型書店に取って代わられ潰れてしまった、お気に入りの小さな本屋さんだった。
当時漫画は絶対に紙で読んでいて、書店で見かけた表紙が気になった漫画をジャケ買いするのが楽しみだった。
『宝石の国』の1巻を店頭で見つけたとき、表紙が宝石みたいにキラキラ輝いていて一目惚れした。「すごい漫画がある…!」と思って気づいたら買っていた。
装丁に工夫がある本は大好きだ。早速買って読むと、まず設定に、そしてキャラクターの造形に圧倒された。今まで見てきた何にも似ていない作品世界。線の優美さ、言葉選びの鋭さ。


あまりに有名な作品だから蛇足かもしれないが、念の為、簡単にどんな作品か説明する。

この作品の舞台は人類が滅んだ後の地球。そこでは意志を持って動く宝石たちがいて、「金剛先生」という僧侶姿の男性の指導のもと学園生活に似た日々を送っている。
宝石たちはそれぞれ性質が違っていて、得意なことを活かして仕事を分担している。その中に「戦闘」がある。宝石たちを狙う「月人」という存在が定期的に現れるからだ。
主人公フォスフォフィライト、通称フォスは宝石の硬度(簡単に言うと、壊れにくさ)が低く、何か突出した才能もなく、他の宝石たちのように役割を与えられないことにコンプレックスを抱いていた。
フォスは、与えられた仕事の最中に、生まれつき毒を出してしまうため皆から離れて暮らしているシンシャと出会う。
シンシャもフォスと同じく、性質ゆえに納得のいく役割や居場所を与えられておらず、フォスは自分にしかできない仕事を探すのと同時に、シンシャにもシンシャにしかできない楽しい仕事を見つけることを約束する。
しかしフォスは、自分にしかできないことを探す過程で、自分が信じてきた「金剛先生」、そして敵だと思っていた「月人」の正体について知ることとなり……。

1巻だけを読んだときの印象は、主人公フォスは元気で子供っぽくて、何だか周囲に甘えた感じの子だなぁという感じだった。
生まれながらに戦闘向きでなく、何かに突出していない。みんなは何かしら得意なことがあるのに自分にはない。
その感覚ははちゃめちゃに分かるが、この時点ではまだフォスは目的に向かって努力している描写がないので、「文句言わないでとりあえず目標を作って死ぬ気でやってみなよ」なんて偉そうに思っていた。

でも巻が進むごとに、フォスは変わっていく。
一人の子供が成長するように、異質なものを取り込み、時に何かを失い、無邪気に信じていた常識に裏切られ、能力は得たはずなのに望むものはずっと手に入らない。
フォスに肩入れしながら読んでいるのもあるが、フォスの選択や判断は間違っていないと思う。
それなのにフォスは転がり落ちるように不幸になっていく。初めは可愛いなぁ好きだなぁと思っていたユークレースもダイヤも皆嫌なやつに見えてきてしまって、気づけば完全にフォスとしてこの世界を見ていた。私も、やれ! みんな粉々にしてしまえ! と思っていた。

フォスとともに最初に月に行った宝石たちの、月に馴染んだときの振る舞いがものすごくものすごく嫌で、皆自分の悩みから解放されて自由に生きているからそれはもちろんいいんだけど、なぜこんなに嫌な気持ちになるのか、自分でも解らなかった。
今少し冷静になって考えれば、それは「みんな」のために頑張っているフォスのことを蔑ろにしている感じがするから、そして「人間らしいから」だと思う。

地球で宝石として暮らしていたときの彼らは、中性的な振る舞いで(寝巻きは少女趣味だけど)、欲望らしきものが極めて薄く、基本的に「金剛先生」と「みんな」のことを考えている。つるんと無機質で、とても純粋で無垢で、俗っぽくなく人間っぽさがない。もちろん、ダイヤのボルツに対する感情は人間っぽさの片鱗だけど。

私の感覚でいうとこれは、少年だけ、少女だけの寄宿学校のような環境で暮らす少年少女の姿だと思う。そこでは自分は「みんなの中の一人」であって、友情によって対等な関係を維持する。友情は利他的な行動を促し、基本的に皆が同じ方向を向く。

しかし月に行き、月に馴染んだ宝石たちは「みんなのため」ではなく「自分の幸福のため」に行動する。ほとんどの宝石たちがフェミニンな雰囲気になり、特に変化の著しいカンゴームは恋人のエクメアとの関係を第一に行動する。

私はカンゴームの月での振る舞いが、「自由に生きられるようになってよかったね」と3%くらいは思っていたけれども、同時にものすごく嫌なものに映った。
これは、私が女友達の「女」の部分を見たくないという感情に近い。仲の良かった友達が急に自分の優先順位を最低まで引き下げ、彼氏第一になること、別人のような横暴な雰囲気になることが嫌だと感じるから。別に、誰も悪くないんだけど。

いきいきしたカンゴームはとても可愛い、でもフォスの目で世界を見ている自分には裏切り者に見えて、後半は辛かった。
私は、自分が「月に行く前の宝石たちが好き」と思うのはとても勝手な欲望だと理解している。
ずっと純粋な、「女性性のネガティブな側面」や「自分の欲望に従うこと」から遠い、幻想的で少年的な存在でいてほしいと望むなんて身勝手だ。

でも、私は実際作品世界のみならず、まわりの人たちがみんなそうであってほしいなどと思っている。恋愛に関わる全てのものに苦手意識があるから。(恋愛の話にノれるのは当たり前だなんて変な話だと思う。私が大好きな三国志だって、好きな人はちゃんと存在するけど、興味のない人もちゃんといる。だから三国志の話を興味ない人に無理にしたりはしないし、「三国志に興味がないなんて変だ」なんて言ったりはしない。けど恋愛になるとそういうことを平気で言われる。変な話だ)

作品を通して、一番好きなのはフォス、ユークレース、パパラチア、イエローダイヤモンドだ。
フォスは巻を追うごとに好きになった。きっと、ほとんどの人がそうだと思う。
最終巻は顔が溶けるくらい泣いた。フォスを抱きしめて「あなたは頑張ったよ」と褒めてあげたくて、でもできないので泣いた。
一緒にマリカとかしたいし、(宝石は何も食べないけど)美味しいものいっぱい食べさせてあげたい。ちゃんと私は見てたよ、色んな辛いことがあったよね、フォスはすごいよ、って言ってあげたかった。
何より、先生や宝石たちみんなとずっと仲良く過ごしてほしかった。

ユークレースは序盤からずっと好きで、穏やかで理知的で全体を見ている参謀的なところがいいなと思っていた。
フォスがみんなを月に誘い始めたときに勘づいて釘を刺すところ、月に行ったフォスに対してもすぐに敵視するのではなくて、皆をまとめながら中立でいようとするところ。かっこいい。
みんなを等しく尊重する、ってことはものすごく難しいことだと思う。
それができる人(宝石)だから、実際フォスのことを終始ちゃんと見ていてくれたのはユークレースだったと思う。

パパラチアとイエローダイヤモンドは、フォスの味方をしてくれがちだったのでより好きになった。
どちらも強くて年長組だけど、達観したパパラチアに対して結構精神面で脆い(というより、長生きしすぎて病んでる)イエローダイヤモンドは月に行ってからの様子があまりに危うくてショックだった。終盤はなんだか痴呆の始まった身内扱いだった気がする。
年長者としてしっかりしないといけないというプレッシャーから解放されたと考えれば幸せなのかもしれないが、ぼんやりしたイエローダイヤモンドの姿は見ていて辛かった。身内の老いを目の当たりにしたときみたいだ。

読み終わってずっと考えているのは、願いを叶えた宝石たち月人たちと、苦しみ続けたフォスの違いは何なのだろうということだ。
あの結末は、とっても美しくて、納得のいく、「この作品を読めてよかった」と思える素晴らしい展開だった。そして、希望のある結末ではあるものの、何一つひっかかりのないハッピーエンドとも言えないエンディングだと思う。

フォスの、「自分にしかできない役割を得る」という願いは、一応叶っている。
でも、フォスはそもそも「みんなの役に立って、認められたい。先生に褒められたい」という願いも持っていたはずだ。憎めない末っ子として何だかんだ愛されていたけれども、やはり役割がないことで居場所のなさを感じるのは当たり前のことだからな……。
最後に、先生もみんなもいなくなって、もうフォスはかつての大事な人(人ではないけど)たちに褒められることはない。

異質なものを取り込みながら強さや知性を得たフォスは、自分の望む力は得たけれど、「みんなのためにしたこと」は基本感謝されない。
感謝されても、それは「お前はもう仲間ではないし、お前はもう要らない」というメッセージ付きだ。悲しすぎる。
それに気づけば別の目的を持った他人に利用されている。フォスのしたことがみんなのためにはなっているけれども、その結果の「みんな」にフォスは入れてもらえない。

フォスはどうすればよかったのだろう?
一つ思いつくのは、フォスの当初の願い自体に問題があるということだ。
他の宝石たちの願い(抱えている悩み)と比較して考えてみると、まず月に行って分かりやすく幸せになっているダイヤは、硬度が高く「強さ」に重きを置く価値観の中で、圧倒的に強く戦闘のセンスがあるボルツ、自分の確実な上位互換が身内としてそばにいることが悩みの種だった。
ダイヤは明らかに戦闘能力よりもその可愛らしさが強みだし、本人的にも「強くなりたい」よりも「強さで評価される環境から脱したい」の方が望みだったと思う。
向かない価値観に合わせて、適応するために無理をしていた感じがある。だから戦いの必要のない月へ行き、アイドルとして十分に自分の強みを発揮してのびのび楽しそうにしていた。

そしてカンゴーム。二重構造のカンゴームは、人間でいうなら二重人格のようなもので、もう一つの人格の命令に従わなくてはならなかった。カンゴームはその人格から自由になり、思うままに生きられるようになった。

アランの『幸福論』で出てくるたとえを借りるなら、赤ん坊のお尻に刺さっているピン=原因が明確なのが、フォス以外の宝石や月人たちだと思う。とても雑に言えば。
ダイヤは自分本来の強みを評価される環境に行くこと、カンゴームは自身の体からもう一つの人格を取り除くこと。

では、フォスの願いにおける「ピン」は何か?
フォスに境遇の似ていたシンシャは、宝石たちの価値基準における硬度でいうとフォスを下回る。そして毒を出す。しかし毒は戦いにおいては有用だし、月へ行ったシンシャは宝石の体から月人の体へと変わったことでその性質からも解放された。
シンシャにとっての「ピン」は毒を出す体質が主なので、それが解決されるとすんなり望みが叶う。

フォスの願いは「自分にしかできない仕事を見つけて、みんなの役にたって、居場所を得ること」。
フォスが皆と違い特別な仕事を任せてもらえないのは、硬度が低く、これといって得意なことがない(むしろ何をやっても結果が出せない)ことが原因だ。フォスの強みは、比較的変化に強いこと、周りから「やれやれ」と愛される末っ子気質なところだと思う。

宝石たちは皆、「もともとの自分のままで生きていく」振る舞いで願いを成就させているので、不要なものを捨てていき、より純粋な自分を獲得していった感がある。
対してフォスは変化し成長するために色々な物を取り込んで、もともとの自分から遠ざかっていった。そして最後にまた削られ、純粋な姿に還っていった。

そう考えると、当初ダイヤから助言された「変わってみること」自体が、その過程で得たものには価値があるにせよ、フォスをフォスの本当の願いからは遠ざけていったのかもしれない。

金剛先生がすぐにフォスに適した仕事を与えられなかったのは仕方がない。
実際、月人と敵対していたあの環境でフォスに対して役割を与えようとするのは難しい。もっといろんなものに触れていけばきっと何かフォスにも興味の湧くものや得意なことが見つかるはずだし、「博物誌」の仕事は理にかなっている気がする。

もし月に行った後で、フォスに「神様」的役割が押し付けられなかったとして、他の宝石たちと同様楽しく暮らすこともできたのではないかと思う。心にしこりは残るだろうけど。

フォスが幸せになるためには
①もともとの自分のままでいること
(あんまり好きな言葉じゃないけど、自己分析して、背伸びせず自分の強みを考えること)

②身の丈に合わない望み、もしくは「ピン」のない願いを持たないこと
(夢も目標も大事だけど、当然叶うことと叶わないことがある。好きな人に好きになってもらえるとは限らない。それでも無謀なことを望むのが人間らしさかもしれない)

のいずれかではないか、と思う。

いや、というよりフォスは運命に翻弄されたところも大きいので、そもそもフォスを自身の目的のために利用しようとする存在がいなければ、宇宙規模の役目を押し付けられたりしなければここまで苦しまずに済んだような気がする。

フォスフォフィライトという、美しいが低い硬度の宝石として生まれ、やることなすこと他人に利用された全てが避けられない運命なのだから、この物語はすべて成るように成ったのかもしれない。

だから、物語の中のフォスを救うこと自体、無理なのかもしれない。
現実世界でも、不幸はかなりの確実で解決不能だ。解決不能だから不幸なのだ。単純明快な解決法がある問題は不幸たりえない。
もしくは、あったとしてもその解決法の実行を阻む別の問題がある。「ピン」のない不幸、「ピン」をすぐさま抜けない不幸には、たいてい浸かり続けるほかない。それと、ぬるい不幸には中毒性もある。

自分自身にも、「ピン」のない不幸がある。「ピン」をすぐさま抜けない不幸も経験したことがある。
自分の理想に能力が追いつかないこと、自分だけが置いていかれている感覚、何が起こったとしても「自分だからダメなんだ」がいつまでも消えないこと。みんなは「あっち側」で、私は「あっち側」には行けないんだ、という確信とか。

だからフォスに感情移入してしまう。フォスが報われてほしいと思う。幸せになっていくフォス以外が妬ましくなる。


この作品は明確に仏教的要素がある。
金剛先生は僧侶だし、月人は仏像っぽいし、エクメアの正体も元ネタは仏教だ。
あらゆるものを脱ぎ捨てていくことで一つの正解に辿り着くフォスの過程はブッダが釈迦になるまでと似ている。
フォスが過ごした108日も仏教では煩悩の数。
欲望を捨て、より自然に、より素朴になっていくことが苦しみから解放されることにつながる、というのが、私の今時点で理解しているとても雑な仏教観だ。
最後にフォスが共に過ごした石たちのように素朴に生きられたら、きっとフォスも「皆と仲良く楽しく過ごす」ことで満足できていたかもしれない。私も、欲望に振り回されないでいられるかも。

でもできない。石たちのように生きることと、人間性はとても遠い。「今ある素朴な幸せに感謝しよう」という教えは、実行に移すのがあまりに困難だ。低度の欲求が満たされれば、どんどん高度なものを求めるのが人間なのだから。
というか、欲求がすべて叶えられたら人間はどうなってしまうのだろう。そうなると生きること自体に興味が失せてしまうのではないかと思う。

フィクションについて、「この作品を読んで、これからはこうしようと思った」という感想を、私はあまり信用できない。
もちろん新たな学びや気づきを得て自分の生き方が変化するのは並大抵のことではない。私も作品からポジティブな影響を受けたことは何度もある。

信用できない、と思ってしまうのは、私が「何があろうと生きていくしかない」という価値観を変える気がないからだ。
何を当たり前な、と思うかもしれないが、私が言いたいのは、「運命は変えようがない、世界はあるようにあるだけ」ということだ。

「当たり前に感謝する」という手法で自分の足りない部分について逡巡するのをやめるとしよう。
それはきっと、よほどの外的要因がない限り成功しない。だって、足りない部分は足りないままなのだ。何も解決されてはいないのだ。

私の右目の視力が低いことも、憧れている作家のように輝きを放つ文章が到底書けないことも、努力では埋められないことだ。(文章力が上がろうと、届かない領域はある。何であれ、本当の才能はいつも「上手」を超えたところにある)

それでも、身の丈に合わない望みを抱くし、それに向かってあがくし、諦めたふりだってしてみるのが人間だ、と思う。
「人はいずれ死ぬ」とか「なぜ生きているのか」とか基本的に解決不能な悩みに対しての処方箋は、いつだって鎮痛剤でしかない。人間が希死念慮に支配されてしまわないための。

『宝石の国』が自分にとってこれほどまでに愛すべき作品になったのは、多分、そういう「ままならなさ」に対するお為ごかしがなかったからだ。

強さを得て居場所を獲得していった少年漫画の主人公はすぐに思いつく。当然、ほとんどの人はそういう物語を読みたいだろう。
そういう漫画にはそういう漫画の良さも価値もある。
でも私は、そういう漫画の中ではたいてい「挫折した人」や「思いを遂げられなかった人」を好きになる。どうしたって折り合いのつけられない問題を抱えながら、それでも生きている姿を見たい。

『宝石の国』を読んだことで、私の人生が劇的に変わることはない。でも作品は私の中にあり続ける。私はフォスのことを考え続ける。

結局のところ、そういう作品だから『宝石の国』が大好きなのだ。そういう作品に出会いたくてフィクションを求めているのだ。
フォス、私はずっとあなたのことを考え続けるからね。

【好きなセリフについて】
好きなセリフは本当にいくつもあるが、特に好きなのは

「できることしかできないよ」
「できることしかやらないからだ」
「できることならせいいっぱいやるよ」
「できることしかできないままだな」

と、

「わかってやれなくてすまない」

だ。

一つ目のアンタークとの対話は、平易な言い回しでしっかりとフォスの甘さを指摘している表現に自分自身もウッとなった。かえしのついた銛で突かれたみたい。

もちろん結末を知っている今ではこの指摘もフォスにとって正しいことなのか分からないが(強くなって賢くなって、その結果幸せになれていないので)、フォスが停滞していたのはこの理屈だ。

二つ目のネプチュナイトの台詞は、この回でのユークレースの言葉と同じく、好きだ。
無口で思考の読めないネプチュナイトが珍しく自分の思っていたことを口に出したシーンで、フォスはこの言葉で明らかに動揺する。

正直で、誠実で、優しい言葉だと思う。
フォスを救うことができなくても、多分ネプチュナイトはフォスが月へ行ってから、フォスが何に悩み、どう苦しんでいるのか自分なりに考えようとしたのだろう。
かつて一緒にいたとき、フォスが悩んでいたことに気づけなかったことに対しての「すまない」なのか、フォスが何に苦しんでいるのか知ってもなお、フォスよりも強く生まれたがゆえに実感をもって寄り添うことができないことに対する「すまない」なのか。

どちらにしても、ネプチュナイトはユークレースと同じく、月へ行ってもなおフォスのことは「みんな」のうちの一人だと思ってくれていたのだろう。
共感や理解が難しくても寄り添おうとするのは、優しさの最たるものだと思う。

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