日記「ホットケーキ、あやや、今関あきよし」
2024/11/09
YouTubeショートでホットケーキの美味しい作り方を見てから昨日は一日中「ホットケーキを食べたい」という考えに脳を支配されていたので、帰り道にスーパーで材料を買い込み、今朝はホットケーキを焼いた。
一枚ずつ焼いて食べれば常に焼きたてが食べられるけれど、都度フライパンを温め直す手間を惜しんで一気に焼いてしまう。(一緒にキッチンで作っていたとき、一枚焼けると私に「これ焼けたから持っていって食べておいで」と言ってくれていた祖母、愛だな)
一袋のホットケーキミックスで、3枚と0.4枚分くらい(いつも0.4枚分くらいのちっちゃい赤ちゃんホットケーキができるよね)。朝ごはん一食分にはちょっと多いなぁと思いつつ、むしゃむしゃ食べる。
『しろくまちゃんのほっとけーき』という絵本を狂ったように読んだ幼少期の経験から、私にとってホットケーキは幸福の象徴だ。美味しい。形が可愛い。朝起きてホットケーキを焼いて食べる、こんなことは時間と心に余裕がないとできない。
私は低血圧のせいで朝のエンジンのかかり方が凄まじく悪い。毎朝「ヴィ"~~~」と言いながら布団から這い出て、休憩中のボクサーみたいに座って半分寝ながらロールパンを口に詰め込んで家を出る。友達は早起きしてアイロンで髪をまっすぐに整えているのに、その時間すら惜しくて寝てしまう自分が嫌だなと思う。
休みの日はゆっくり起きても構わないので、こうやって朝食を作って食べられる。そもそも家を出るべき時間に、全然食欲なんか湧かない。朝食を食べるのにちょうどいい時間は9:30〜10:40だと思う。いつもの時間の朝食は、ただ午前中人前でお腹が鳴らないようにするための燃料に過ぎない。
ホットケーキを3枚とちょっと食べ終えると、やっぱり多いな、今自分の主成分は7割ホットケーキかもなと思いながら横になった。ホットケーキを食べると全然動けなくなる。一人分にしては多くないか? と思って天井を見ていたら、「いやそもそもこれ、ひと世帯分(3人)か?」と思い至った。
そして、体の中をホットケーキでいっぱいにして一人部屋で転がっている自分のことが急に哀れになった。でも朝から美味しいホットケーキを食べられたので構わない。次はチョコレートソースを買ってこよう。
ボーカルレッスンが終わり、今日習ったことをメモしながら「あややってすごいんだなぁ〜」と思った。
私はネット音楽、特にボーカロイド文化に肩まで浸かってきたので、無意識に歌い方が2010年初め頃の初音ミクのようになる。(もちろん調声は扱う人によって千差万別だけれども、基本的には無機質な調声がスタンダードで、人間らしく歌わせるのはあくまでカウンターだったと思う)
平坦で無機質な歌い方が自分にとっては当たり前で、かつちゃんと歌えている(きちんと音程が取れている)ということだと思っていた。
しかし歌を習い始めて、先生から抑揚について指摘を受けるようになった。
抑揚といっても、音の強弱だったり、母音の伸ばし方だったり、発音だったり、色々だ。
そういうことを学んでから 知っている曲を聴いてみると、「すごく工夫してる……!」と気づく。
特に分かりやすいのがあやや(松浦亜弥さん)。私はつんく♂さんの歌詞とあややのハスキーな声が大好きだ。特に好きな曲は『トロピカ〜ル恋して〜る』。
夏に彼氏と南の島に旅行に行くことになっちゃった! という曲なのだけれど、そのわくわく感と不安が絶妙にリアルで、「食事とかマナーをちゃんと教えててくれたパパママ感謝」という歌詞を初めて聴いたとき「すごっ!」と思った。水着を着るためにダイエットしているけどずっと納得いかない、というフレーズもすごくリアルで可愛い。
けれども、確かに食事マナーだったり旅先での振る舞いだったり、やや非日常なシーンって自分がテストされるみたいで緊張する。それをちゃんと教えてくれてた両親ありがとう! と思ってほっとしているこの歌詞の女の子、とても健全で素敵な家庭なのね、と勝手に微笑ましくなる。親目線になると心配で仕方ないけどね、このシチュエーション。
歌詞の話をするのが好きすぎて脱線した。あややはこの曲を歌うとき、まず歌い出しの「夏の妙な雰囲気で」から、「ンなァつゥの みょォなァ ふいィんきでェ」と発音する。夏の、も「な」じゃなく「ンな」でちょっとフライング気味に入る。
私が何も考えずに歌うと、「なーつの、みょーな、ふいーんきーで」になる。あややの歌い方の方がリズムの取り方が圧倒的に細かい。
これがいわゆるグルーヴ感になるのか、ちょっとまだ勉強不足で分からないけれども、あややの曲を聴いていて楽しい! となる要素は確実にこの歌い方の工夫なんだと思う。
浅はかにも私は、歌手はただ歌うことを楽しんで歌っているのだと思っていた。実際には、私が聴いているのは、歌手がどう聴かれたいかを考えて試行錯誤し努力してきた結果なのだと思う。
夜、一人で今関あきよし監督の『すももももも』を観る。今関あきよし作品は、私にとっては酸素ボンベみたいなもので、現実を生き抜くのに定期的に摂取しないと命に関わるくらい大事だ。
こんなに自分の好きな要素が詰まった映画が存在するのが何だか怖くもあり、この映画たちがあってよかったなといつも思う。
まだまだ観られていない作品もあるけれども、比較的元気なときは『アイコ十六歳』、自分の好きなものに自信がなくなったり、やりたいことが分からなくなったときは『りぼん•RE-BORN』、シンプルにめちゃくちゃ精神的に落ち込んでいるときは『すももももも』を観る。
今日は色々頑張ろうとした割になぜか自己嫌悪が凄まじかったので『すもももも』の日だ。
この三つは全て、女の子が可愛く、何となくずっと不穏で死の気配がちらつき、演出がちょっとトンチキ。大林宣彦監督にとても近い要素を感じるけれども、今関あきよし監督にしかない魅力があって、「現実を生きるために自分の中の王国を守ること」が特有のテーマなのではと思っている。(当然、未視聴の映画で印象は覆るかもしれないけれど)
『すももももも』は、出演者自身がその内容を「よく分からない」と言っているように、幻想的で説明しづらい物語だ。(ちなみに浜崎あゆみが出演している。役にぴったりだし可愛い)
駄菓子屋のすももパックを光に透かして眺めるのが好きな高校生、相原小桃は誰とも口を聞かないストライキをしている。彼女の両親に友達、彼氏、妹とその彼氏、謎の男。周辺人物は皆ちょっとずつ壊れているというか、普通にかつ横暴に(繊細な小桃にとっては)生きている。小桃は事故に遭い、不思議な世界を彷徨うのだが……というのがあらすじ。
何回観ても全て理解できるわけではないし、そういう映画ではない気がする。傷つきながら生きている小桃に心を委ねて一緒に夢の世界を浮遊する時間が好きで、この映画をよく観る。
『りぼん•RE-BORN』のヒロインである「うめよ」と同じく、小桃は現実の世界で幸せに生きていくことはできず死んでいく。けれども自分の中にある、自閉的な世界では幸せでいられた。そういう、空想に生きて死ぬ彼女たちを映画の中で生贄に捧げてのうのうと生きている自分のことをたまにすごく嫌いになるけれど、やっぱり今関あきよし監督の映画は抗いがたい魅力がある。
うめよと小桃が見切りをつけたこの世界で、私はあとどれくらい生きるんだろうか。