高校生のための人権入門(14) 障害者の人権について
障害者とは
2016年(平成28年)4月に「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別解消法)」が施行されました。この法律は、その第二条で「障害者」を「身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。」と定義しています。
ここで注意しておきたいのは、この法律では障害は「身体障害、知的障害、精神障害」の3種類に分けられ、「精神障害」には「発達障害」が含まれていることと、「日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける」原因として「障害」だけでなく「社会的障壁」があげられていることの2点です。(なお、第二条の中の「その他の心身の機能の障害」とは、主に難病などを指します。)
障害はどこにあるのか
障害者の人権について考える時、まず確認しておかなければならないのは、「障害とはなにか」ということです。これについては、「障害は、どこにあるのか」という視点で考えてみるとわかりやすいと思います。まず、「障害は、障害を抱えている人の心や体の中にある」という考え方があります。こういう考え方を、障害の「個人モデル(医学モデル)」と呼びます。しかし、「障害」はどこにあるのかについては、実は、もうひとつの考え方があります。それは、「障害は、社会の中にある」という考え方です。これを障害の「社会モデル」と呼んでいます。
「障害は、(個々の人の心や体の中にあるのではなく)社会の中にある」という考え方は、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、「障害」というものを、「その人が生活をする上で感じる『生きづらさ』」のことだと考えれば、わかりやすいかもしれません。例えばふだん、車いすを使って移動をしている人の場合、もし、街に段差などがなければ、介助などなくても自分の力でいつでも街を移動することができるでしょう。この場合であれば、「段差」がその人にとっての「障害(生きづらさの原因)」であると言うことができます。街の中の段差をなくしたり、階段の横にエレベーターを設置したりすれば、車いすの人も不自由なく自分の力で思うところに移動することができます。さらに、「車いすで街に来る人」への偏見(「なぜ、車いすの人がわざわざ街に出てくるのだろう。家にいた方が自分も楽なのに。」)や、「精神障害を抱える人」への偏見(「なぜ、わたしが統合失調症の人といっしょに働かなければならないのか? 不安だ。」)なども、社会に出て活動しようとする障害者にとっては、大きな「障害(生きづらさの原因)」となっています。
つまり、「社会モデル」の考え方では、社会の中の「障害」(施設や制度の不備、人々の偏見など)をなくしていくことによって、すべての人が生きづらさを感じることなく、社会の中で暮らしていけることになります。先ほど紹介した「障害者差別解消法」では、「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける」と説明していますので、この法律は「個人(医学)モデル」(「障害」)と「社会モデル」(「社会的障壁」)の両方の考え方を取り入れていることがわかります。
大泉洋さんの言葉から考える
2018年(平成30年)12月に公開された映画に『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』という映画があります。この映画はもともと進行性筋ジストロフィーという難病だった鹿野靖明さんを取材して書かれた『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(渡辺一史著、文春文庫)が原作です。映画で鹿野靖明さんを演じた俳優の大泉洋さんが、映画公開前の舞台挨拶で、こんなことを話しています。
「これまで娘の教育では『人に迷惑を掛けるんじゃない』と言ってきた。でも、1人でできないことがあったら助けを求め、逆に求められた時に助けられる人になってほしい」(マイナビニュース(https://news.mynavi.jp/article/20181227-748047/))
ここで大泉さんが言っていることは、障害者の人権にとどまらず、人権全般に関しても大きな意味を持っています。「人に迷惑をかけるな」という考え方は、本当に強く日本人を支配しています。大泉さんに限らず、日本人の親で自分の子に、「とにかく、人に迷惑だけはかけるな。(それが、人として生きて行く上で最低、必要なことだ。)」ということを言わない親はめずらしいのではないでしょうか。しかし、大泉さんは、鹿野さんを演じる中で、「そうではない、人は誰でも自分一人ではできないことが出てきて、人の助けを必要とすることがある。そういう時は、まわりの人に『助けてください。』と言っていいのだ。そして、逆に自分がそう言われた時は、助けてあげればいいのだ。」と考えるようになったということを言っているのだと思います。これはとても大きな考え方の変化だと思います。
考えてみれば、もともとが人間は誰かに助けてもらわずに生きていくことなどできないのです。赤ん坊を見れば、そのことはすぐにわかります。高齢者も同じでしょう。では、独り立ちして、自分で稼いで家族を養うようになった人はどうでしょうか。そういう人は、「自分は誰の世話にもなっていない。つまり、誰にも迷惑はかけていない。今のうちから、老後にそなえて貯蓄もしているので、介護が必要になっても、誰にも迷惑はかけない。」と思っているかもしれません。しかし、それは間違いです。どんな立派な実力のある人でも、必ず、家庭の中でも、職場の中でも、必ず誰かに助けてもらって、今の「立派な自分」を維持しているのです。「そんなのは当たり前じゃないか。部下なのだから、家族なのだからわたしを助けて当然だ。」などと思う人もいるかもしれません。しかし、もしそんな考えで職場や家庭で生きているとしたら、そのことだけですでにその人は、間違いなく周りの人に迷惑をかけていると思います。
なぜ、障害者の前に立つと緊張するのだろうか
渡辺一史さんの書いた『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』から学べることはまだたくさんあるのですが、ここではあとひとつだけ取り上げてみたいと思います。
渡辺さんは、この本の中で、「なぜ、障害者の前に立つとわたしたちは緊張するのだろうか」という問いを投げかけています。実際に、渡辺さん自身が、取材で初めて鹿野さんの前に立つ時、ひどく緊張したそうです。渡辺さんは本当に正直な人で、だからわたしは、この人の書いたものは信用できると思うのですが、それにしても、なぜ、障害者の前に立つと緊張するのでしょうか。これは、一度は考えてみる価値のあることだと思います。なぜなら、わたし自身が障害者の前に立つと緊張するからです。おそらく、多くの人が多かれ少なかれ、似たような経験をしていると思います。
「なぜ、障害者の前に立つと緊張するのか。」おそらく、その理由のひとつは、健常者(と自分を思っているわたしたち)の多くが、ふだんは、障害者から離れて暮らしているため、障害者の生活や思いがどのようなものであるかわからないからでしょう。よくわからない人やものに対して、不安を感じたり緊張したりすることはよくあることです。そして、もうひとつ、緊張する理由として考えられることは、健常者の多くは障害者に会う前に、心の中で、「いい人でありたい」、「いい人と思われなきゃ」という願いやプレッシャーを強く感じているということがあります。この「いい人」の中身は、たとえば「相手を傷つけたりしない、やさしく思いやりのある人」とかです。しかし、実際には、障害者の生活や思いがどのようなものであるか、ろくに知らないのですから、「相手を傷つけてはいけない」と思えば思うほど、緊張してしまうのは当たり前です。その結果として「相手を傷つけたくない人」や、「自分が傷つきたくない人」は、意識的に、または無意識に、できるだけ「障害者には関わりたくない」という思いを持つようになります。(相手と)自分のために、相手を遠ざけようとする行動(忌避)がここから生まれます。
一方、障害者の持つ思いはどのようなものでしょうか。障害にもいろいろな障害があり、同じ種類の障害でも実際には一人一人が抱えている「生きづらさ」は違うわけですから、障害者の思いを簡単にひと括りにはできないのはもちろんです。しかし、わたしなりにそれをあえて抽象化して、障害者に共通する思いを一言にまとめてみれば、それは、「人としてふつうに生きたい」ということになるのではないでしょうか。他の人が行きたい時に街に行けるのならば、自分も行きたい時に街に行きたいということです。あまりに当然のことです。しかし、障害者に共通する思いとしては、わたしはこれだけでは足りないと思います。「人としてふつうに生きたい」という思いと同時に、「人として尊重されたい」、健常者と同じ「人」として尊重されたいという思いがあるはずです。
このように考えてくると、「障害者の人権」に関しても、パワーハラスメントのところで述べたのと同じような人権侵害の構造があることがわかります。この場合、「強い立場の人」は健常者です。「弱い立場の人」は障害者です。そして、両者の間にはあきらかに「気持ち、思いのズレや断絶」が存在します。健常者としては、障害者に対してどう振る舞ってよいのかわからず、相手を傷つけたくないし、自分も傷つきたくないので、できるだけ障害者には関わらない態度を取ってしまいがちです。それは障害者に対する悪意からではないのですが、障害者にとっては、なにか周りの人が自分を特別な人として避けている感じや、自分の困っている様子をわざと見て見ぬふりをしているような感じを受けてしまいます。「人としてふつうに生きたい」、「人として尊重されたい」という思いを障害者が持っているとしたら、このような健常者の忌避する(避けて遠ざける)態度は、本当につらいものではないでしょうか。このような両者の間に「気持ち、思いのズレや断絶」が生まれる原因は、健常者と障害者の間に、自分の思いを相手に伝える機会がほとんどないことにあります。このような両者の間の「気持ち、思いのズレや断絶」を、もっと小さくしていくことは、決してむずかしいことではありません。
もし、視覚障害者が、街の中で立ちつくして何か困っているように見えた時に、「どうしました。」、「何かお困りですか。」と声をかけてみることができたら、「気持ち、思いのズレや断絶」はずっと小さくなります。「どこそこまで行きたいのですが、どう行けばいいのかわからないのです。」と言われたら、「わかりました。でも、わたし、目の不自由な人を案内したことがないのですが、どうすればいいですか。」と正直に聞けばいいのです。それに対して「それでは、腕を組ませてください。」とか、「肩に手をかけさせてください。」とか言われたら、そのようにすればいいのです。(視覚に障害がある方を誘導する場合、その誘導の仕方はこれが絶対的な正解というものはなくて、その人に聞いて、その人の望むやり方にするのが一番いいと聞いた時、わたしはなるほどなあと思いました。)逆に、障害のある方も、何かに困っている時は、遠慮せず、「すいません、助けてください。」というサインを出すことが大事です。そうしないと、健常者は気づかなかったり、気づいても、「本人が助けを求めていないのだから、声などかけない方がいいかな。」などと思って、避けてしまったりする可能性があります。
「やさしさ」と「思いやり」の落とし穴
ここで、ひとつ押さえておかなければならないことがあります。われわれの中には、健常者は常に障害者に対して、「やさしく、思いやりを持って接しなければならない」という考え方があります。しかし、本当にそうなのでしょうか。わたしがそう思うのは、「やさしさ」とか「思いやり」という言葉にはどこか相手を自分より低い者として見ている感じがするからです。障害者を見たり、その苦労を聞いたりして、「気の毒だ」、「かわいそうだ」と思うこと自体は悪いとは言えません。しかし、「気の毒だから、やさしくしよう」とか、「かわいそうだから、思いやりを持って接しよう」ということになると、どうしても相手を自分より弱い、劣った者として、どこか哀れむような、相手をいちだん低く見るようなニュアンスが生まれてきます。このような見方は、差別的な見方である「障害者はどこか能力的に劣っている」とか、「迷惑だから家や施設にいてほしい」という考え方と、一見正反対のようでありながら、どこかで通じ合っているところがある気がします。これが「やさしさ」と「思いやり」の落とし穴だとわたしは思っています。
誰もが、広い意味での「障害者」
障害者というと、一般に「(障害があるため)特定のなにかができない人」というイメージがあります。しかし、よく考えてみると、わたしを含めてすべての人が、できることもたくさんありますが、できないこともたくさんあるのです。そのできることとできないことは、それぞれ違っていて、だからこそ、人は人に迷惑をかけなければ(人に助けてもらわなければ)、生きていけないのです。そう考えてみれば、わたしを含めて、すべての人が広い意味で「障害者」であるとも言えるわけです。「障害者」であるわれわれが、自分を「障害者」だと感じないで生きていられるのは、たまたま今の社会が、健常者は自分のできないことをあまり感じないで生きられるようになっているからではないでしょうか。たとえば、暗くなると目が見えなくなる不自由さを、われわれは蛍光灯などで埋め合わせているために、ふだんはあまり暗いところで目が見えなくなる生きづらさを感じないで生きていられます。しかし、突然の停電でライトがすべて消えた時、われわれは大混乱しますが、視覚障害者は何の不都合も感じないで行動できるのです。
だとすれば、障害者の人権を考える上で、われわれに必要なことは、「思いやり」や「やさしさ」ではなく、まして、障害者を「気の毒だ」とか「かわいそうだ」と思うことではありません。自分が、何かできないことがあって困ったら、遠慮せず「助けて」と言うことであり、逆に、誰かに「助けて」と言われたら、自分のできることをすることです。
「正しさ」から抜け出して、できることをする
障害のある人に対して、「何をしてあげなければならないのか」ではなく、「わたしにできないことはいっぱいある。でも、できることもある。わたしの前にいるこの人に対して、今のわたしは何ができるだろう。」という観点で考えることが大事ではないかと思うのです。そして、これは、障害のある人に対してだけでなく、自分の周りにいるすべての人に対して、そう考えることが、パワーハラスメントを始めとするさまざまな人権侵害を減らしていくことにつながるのではないかと、わたしは考えています。そこには、こうすることが正しい、こうすることは間違いだということはありません。できることをする。(できないことはできないのですから、しなくてもいいのです。できないことは、あなたの恥でも、罪でもありません。)何が正しいかではなく、自分の持っている力をどう使うか、自分のできることをするか、しないかが問題なのです。
補足
本文の中では、あえて「障害」という表記を用いました。「障害」という表記を使うか、「障がい」という表記を使うかは、さまざまな議論のあるところですが、『なぜ人と人は支え合うのか』(ちくまプリマリー新書、渡辺一史著)の渡辺さんの考え(P15〜17)に共感するので、「障害」という表記で統一しました。また、「健常者」という言い方にも、問題を感じるところがないわけではありませんが、一般的な言い方として、今回はこの言い方を用いました。