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架空人間観察記録 01

01.向かいの席の少年

 映画館へ向かうために電車に乗っていた。
 停車した車両のドアが開いて、ホームから滑り込むように、その人は私の向かいの席に浅く腰かけた。あまりに浅く座ったので、私には彼が座高が高いのを気にしている素振りに見えた。
 この夏日に適した真っ白なTシャツに、わさび色の半ズボン。肩からトートバッグを提げている。Tシャツの胸元には「MISSING」とでかでかと書かれている。"行方不明者"という意味が解った上で着ているのだろうか。右耳にはイヤホンが嵌められていた。背格好からして高校生か大学生くらいだろう。
 
 膝の上にほっさりと乗った白いトートバッグの中身は、バッグの輪郭を少し歪ませるほどに詰まっている。その中から迷うことなく一冊のハードカバーの本を取り出して、挟まれた黄色の紐(スピンと言うらしい)を頼りに読みかけのページを開き、熱心に読み始めた。私はそこまで本に詳しくないので彼が何を読んでいるのかはよく分からなかったが、書影の雰囲気からして小説のようだった。昔、学校の図書館で似たようなものを読んだ記憶がある。私は読み切ることが出来なかったが、彼は見たところ読み終わる直前まで来ている感じであった。
 青白い色をしたその本のカバーは、彼の褐色がかった肌の色とちょうどいいコントラストを生み出していて、きっと画家はこういうものの中から美しさを見出して、それをキャンバスに描くのだろうな、と思った。古い絵画の中の人の様な表情を浮かべながら手の中の本を熱心に読んでいる彼は、私の視線を気にすることもなく、意識を活字の中に埋没させていく。

 不意に本を閉じたり開いたりして書影を確認する素振りを見せた。血管の影が浮かぶ彼のゴツゴツとした手からは想像もつかない様な穏やかな動きで、私は本が羽ばたいているのかと思った。いや、今のは嘘だ。とにかく私の目にはそれほど綺麗に映ったのだ。
 何を確認しているのだろう。作者だろうか。まさか誰の本を読んでいるのか急に分からなくなった訳でもあるまいに。本を読んでいる最中に彼の別人格が出てきた…なんてこともある訳がない。私は普段あまり本を読まないから、彼が何をしているのかよく分からなくて、少し人生を損している気分になった。

 4駅ほど通り過ぎて、次は映画館の最寄りの駅となった。1分と数十秒毎にページを捲る彼は、同じ長椅子に座っている誰よりも豊かなスピードで人生を送っているように見えた。
 刹那、彼の口から車両中に聴こえる程の大きなため息が漏れた。手元の本は恐らく奥付を開いている。
 彼は更に大きく息を吸って車窓の外を眺めた。午後3時の日差しが彼の顔を射抜いて、その光を受けて黒目が少し琥珀の色に染まってきらきらと光っている。小説というひとつの世界を生き抜いた彼の目に映るその景色はどんなものなのだろうか。
 車両の中にアナウンスが響いた。まもなく次の駅だ。タワーが遠くに見え、吊り広告がエアコンの風で揺れている。黄色と灰色の吊り革は同じ方向に少しだけ傾斜している。
 彼にはこの景色はどう映るのか。そう思って彼の顔を見た時、彼の視線と私の視線がピタリと合わさった。映画に見入っている時のような、時間を忘れるような感覚がした。その0コンマ一秒後には交差した視線はもうズレていて、きっともう二度と交わることは無いのだという現実感が私を襲った。

 車両のドアが開いて、私は滑り込むようにホームへ踏み出した。ふと振り返ると、彼の後頭部が見えた。

 

 この観察記録はフィクションです。

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