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私たちはみんな違うと叫びたい

出身校であるICU高校の校長先生が書かれた記事を目にして、溢れ出てくるものがあったので書いてみます。

国際基督教大学(ICU)高校では、入学したとたんに誰もがマイノリティー(少数派)の立場に置かれます。例えば、ICU高の入学がきっかけで、初めて日本に住む帰国生がいます。国外で生まれ育ち、いまだになじみのない日本での学びは不安も大きいはずです。ひとくちに帰国生と言っても、育ってきたのは米国や英国、中国など様々な国や地域です。それぞれが持つ背景は異なり、入学してすぐの生徒たちは「どんな学校に行っていたの?」「どんな家に住んでいたの?」といった質問から会話を広げていきます。国内で義務教育を受けた一般生は、ことばの壁に衝撃を覚えます。「英語が好き」「英語が得意」という自信を持ってICU高に進んだものの、英語での授業に戸惑ったり、帰国生との会話についていけなかったり。自身とは違う文化や習慣で育った仲間との出会いにも、面食らうことでしょう。


溢れ出てきたのは、今もずっと、いつもずっと、あの時からすでにずっと心の中にある「私は誰とも、誰もが私とはこんなにも違う」という気持ちです。

そして、その気持ちを、「途方もない疎外感と違和感」と出身校の現校長先生が見事に言い抜いてくださっていることへの衝撃です。

「途方もない疎外感と違和感」は、言い換えれば「途方もない不安・絶望・恐怖と未知への高揚感」です。

中学生の私は、「同じ」であることに辟易としていました。皆同じ制服を着させられ、スカートや前髪の長さにまでルールがあり、女の子しかいなくて、ほとんどが横浜に住んでいて、学業のレベルも同じくらい。同質性の塊のような集団の中で少しだけ目立っていた私は、「個性」というものに対して強い憧れを持っていました。きっとここではないどこかには、もっとここにいるみんなと違う、私がまだ知らない誰かたちがいるはずだ。そうやって、見えてもいない世界のような何かにひたむきに心を向けていたのです。

「このくらいで目立っていてはいけない。そんなはずはないのだから」

願いは神様に聞き届けられ、私は未知への高揚感をメガマックスまで昂らせて、多種多様な個性が同じ空間に同居する多様性の世界へ飛び出すことになりました。そして知りました。多様性って大変だってことを。

前の学校だったら誰もが当たり前に受け入れていたであろうルールに怒り出す人もいれば、前の学校だったら恥ずかしがって誰もしないようなことを当たり前のようにする人がいたり。何かにつけて「なんではっきり言わないの?」と責められたり。それは決して心地のいいものではなく、困惑したり嫉妬したりしてしょっちゅう面倒になって塞ぎ込んだり、ずっと落ち着かなかったように思う。

だけれども、そんな日々おかげで、人と人は違うという前提に立てるようになったことは、大きな財産なんだろうと今になって思う。結果的に「私たちみんな同じだよね?ね?」という空気を壊さないためにものをはっきり言わない同調圧力カルチャーに対して炭鉱のカナリヤばりに超敏感になり、「簡単に一緒にすんじゃねーよ」と思いながら、自分でいるために、自分の心に嘘をつかないために、自分を殺さないために、自立した生き方を選ぶことができた。

それから、途方もなく優しくなったと思う。許せないのは、多様性を無視する言動くらいだ。あとは相手がどうなっていたって、基本的に「私とは違う人だよね」と受け取ることができる。そして、私に向けられる興味や言葉は、保身の打算で適当に割り切ることなくしっかり受け止めて返すことができる。

もしかしたら、この世の多くの苦しみは「本当は同じであるはずなのに」から始まっていやしないか。だとしたら、「いや、ひとりひとりみんな違うから」「違う前提でもちゃんと人と関わって生きられるから」と声を大にして言いたい。そして、違う前提で個性のままに、自分の心に嘘をつかずに生きている人の方が多い社会にしたい。その方が、私をワクワクさせてくれる未知への高揚感が豊かなはずだから。不安・絶望・恐怖がどんなに大変でも、かわりに絶対、面白いから。




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