社会学の理論紹介のために[1/2] -- プラサド『質的研究のための理論入門』批判
プシュカラ・プラサドの『質的研究のための理論入門』(原題 : "Crafting Qualitative Research")は、とてもよくできた著書である。さまざまな分野をカバーした社会学の教科書となると、一般的には複数人の著者によるキメラになることが多いのだが、プラサドは本著を独力で書き上げているため、理論紹介として優れた一貫性を有している。
しかし本著にも、以下に述べるような固有の限界がある。そこで、この論考では、プラサドの『質的研究のための理論入門』の全体構成を批判的に検討し、私なりの理論紹介の構成を提案する。本当に面白い理論紹介は、ただ理論を水平的や時系列的に並べるだけでは達成されない。個別の社会学を超えたメタ社会学的視点を導入し、メタ社会学空間のなかで多様な社会学を再配置することが必要である。
1.本著は誰のための理論紹介なのか
プラサドが『質的研究のための理論入門』でターゲットにしているのは、アメリカの大学生である。章立てが、序論「技(わざ)としての質的研究」を含めて15個となっていることは、アメリカの大学の教科書として採用されやすいようにした配慮である。
本書では、要所でアメリカの学生に気に入られるための努力がなされている。たとえば、解釈的アプローチの概説では、以下のように記載している。
ここで登場するのは、アメリカでも有名な学者たちである。シュッツはオーストリアで生まれたが、ナチス台頭を背景にアメリカに渡り、バーガーやルックマンの研究やガーフィンケルの研究の先達となった。ガダマーは、社会学というよりも哲学や文学において世界で一定の影響力を持つ。ウェーバーはドイツ人だが、パーソンズがアメリカに紹介してからは社会学の始祖の一人として認識されている。ミードは、行動主義的価値観の強かったアメリカで、行為者が見出す意味に注目していた「アメリカ社会科学の傍流」であった。
上記の引用文の直後に、プラサドは「物象化 reification」の概念を説明する。彼によれば、「もっとも示唆に富む物象化の定義は、バーガーとルックマンの画期的な著書 The Social Construction of Reality に記述されている」(p. 15)のであり、あたかも彼ら独自の概念化のように説明される。しかし本来であれば、物象化の説明でマルクスへの言及は避けられないはずである。実際に、バーガーとルックマンはドイツ語圏で生まれ、ナチス台頭下でアメリカに亡命しており、ドイツの思想的伝統はよく理解しているはずで、彼らの用いる「物象化」はマルクスを基礎としている。にもかかわらず、プラサドのこの部分おいては、マルクスへの言及が巧妙に避けられる。それは、アメリカの学生にマルクスを受け入れされることの難しさをよく理解しているからであろう。
実際の理論紹介はシンボリック相互作用論から始まるが、これもアメリカという背景に基づいている。実体論的発想(方法論的個人主義と方法論的集合主義の双方)が根強いアメリカにおいても、ドイツ的な関係論的発想に基づいた学派が「傍流」として存在していた。それこそがシンボリック相互作用論であり、アメリカの学生たちに非実証主義的(非実体論的)な発想を伝えるには最適な導入である。
おそらくプラサドがもっとも苦心したのは、いかにマルクスを伝えるかという点である。アメリカに根付くマルクスへのネガティブな印象といかに格闘するか、という苦労の跡が多くみられる。まず、実際的には非実証主義的な研究のほぼ全域にマルクスが反響しているが、プラサドはマルクスを「批判的アプローチ」のなかに抑え込む。そして、マルクス本人の理論については、共産主義や社会主義という言葉を使わずに「史的唯物論」として紹介する。史的唯物論の章の冒頭で取り上げられるのは、ライト・ミルズの『パワー・エリート』と、バランとスウィージーの『独占資本』であり、アメリカの学生にもなじみのある議論が「史的唯物論」として再解釈される。さらに、アメリカを総本山とするフェミニズム(社会運動としてのフェミニズム)が批判的アプローチの一種だとされることによって、アメリカ社会とマルクスには親和性があるということが暗に示される。
以上のような気遣いが、プラサドの全体構成の核心である。「真理は一義的に存在する」という実証主義的な規範と、「マルクスはアメリカの敵だ」という極端なイメージをもつアメリカの学生をターゲットに、非実証主義的な諸理論を紹介することは簡単なことではない。プラサドはその困難を乗り越えて全15章からなる理論紹介を作り上げたが、そのコンセプトゆえの弊害も生じている。
2.ターゲット設定による弊害
2.1. 道具的理性への従属 -- 理論の実存的価値の毀損
ターゲットをアメリカの学生に設定することで、プラサドは、研究の役に立つものとして諸理論を売り込むことになった。原題は “Crafting Qualitative Research” であり、学生たちが質的研究を作るうえで役に立つ諸理論の手引書として、本書は書かれている。
これは、諸理論が「道具的理性」に従属することを意味する。研究論文を作成するという、学生たちにとっての最大の目的がまず存在し、その目的に従属するものとして、理論が紹介されている。もちろん、プラサドは理論そのものを価値あるものとして認識しているだろうし、実証主義に属さない諸系譜の豊かさをアメリカにも紹介したいという意図はあっただろうけれども、それを研究のために役立つものとして提示した以上は、諸理論は道具的理性に従属することになる。
その従属がもっとも端的に表れているのは、それぞれの理論に「研究例」を紹介するという本書の構成である。それは確かに、ブルデューのハビトゥス概念やギデンズの構造化理論のように、理論的応用を目的に提示されたものであれば歓迎されるべきである。しかし、批判理論やポストコロニアリズムのように、統一的な理論的主軸を提示したわけではなくそれ自体が応用であるような潮流では、理論をほかの目的に従属させて語ることは、その理論の冒涜になり得る。ポストコロニアリズムとして分類される人々の研究は、それ自体が「自分自身とは何者なのか」や「自分を苦しめているものは何か」という切実な問いに対峙した結果であり、その研究自体が実存的価値を持っている。即自的に有意味な研究を、ほかの研究に役立てるべき理論かのように提示することは、研究の実存的価値を貶めることになる。
たとえ「実存」という言葉を使わないとしても、あらゆる理論に研究例を掲載する構成には問題がある。大衆が道具的理性に従属した社会を告発した批判理論にも「研究例」を掲載していることで、批判理論そのものが道具的理性に従属してしまい、批判理論の意義が伝わりづらくなってしまう。フェミニズムやポストコロニアリズムについても同様である。プラサドは序章において「各章は諸学派において提起された、より中心的な問いを扱えるようにデザインされている」(p. 9)と宣言しているが、その試みは無差別な研究例の記載によって破綻している。
2.2. 諸理論の平面的陳列 -- 辞書のような読みにくさ
研究に役立つものとして諸理論を提示することの弊害は、諸理論の実存的意味を毀損することだけではない。諸理論がそれぞれパッケージ化されて平面的に陳列されることによって、それぞれの理論や方法のあいだの近縁性や緊張関係が隠れてしまっている。
本書では、本来であれば相性が良くない理論ができないものをセットで扱う部分と、よく似ているにもかかわらず近縁性があまり言及されない部分がある。たとえば、ドラマツルギーとドラマティズムがセットで扱われているが、ドラマツルギーは関係性が動的に構築される様子に注目するのに対して、ドラマティズムは静的な構造それ自体の特性に注目するため、理論的には相性が良くない。むしろドラマツルギーはエスノメソドロジーとよく似ており、ドラマティズムは構造主義に似ているが、それらは言及されない。
また、プラサドの紹介では、「理論」と「方法」と「運動」が区別されずに並列されており、全体としての一貫性が失われている。ここで、「理論」は記号論や構造化理論、「方法」はエスノグラフィーやエスノメソドロジー、「運動」は批判理論やフェミニズムやポストモダニズムを念頭に置いている。それによって、たとえば次のような混乱が生じる。すなわち、エスノグラフィーは「解釈的アプローチ」の一種として解説されるが、「構造主義的アプローチ」と「批判的アプローチ」でも取り上げられる。
それぞれの理論や方法のあいだの近縁性や緊張関係が隠れていることと、理論と方法と運動が区別されずに並列されていることは、あたかも辞書を読んでいるかのような「読みづらさ」を生み出す。異質性を強調すべきものを並列したり、共通性を強調すべきものを分離したりすると、全体の中で要素をそれぞれ意味づけて把握することが困難になる。本書は、全体を包括的に理解することが難しいのではなく、包括的に理解することがそもそもできないような構造になっているのである。すでに理論に詳しい者でなければ全体像をつかめない理論紹介は、理論紹介としての意味がない。
プラサドは、そもそも包括的に理解できるように理論紹介を行うことは目的にしていないだろう。むしろ、それぞれの理論や方法を関連させるのではなく、独立に論じることを目指していたと思われる。そして、それは十分に達成されている。しかし、あくまでも私の考えだが、その結果として生じた「読みにくさ」を看過することはできない。
〔後編に続く〕