社会学の理論紹介のために[2/2] -- 理論と実存の社会学

 前編では、プラサドの『質的研究のための理論入門』を批判した。それはよくできた理論紹介の著書だが、理論を道具的理性に従属させようとするアメリカの学生の前で、社会学の実存的価値を毀損するとともに、諸理論の水平的陳列による読みにくさを残してしまった。社会学の理論紹介において、社会学の実存的価値を捉えることと、諸理論を包摂する視点を導入することは、いかにして可能なのだろうか。


1.ターゲットとコンセプトの設定


 ターゲットの選定が理論紹介の仕方を規定することは、プラサドの例で示したとおりである。プラサドは、実証主義的な科学の神話を信じている、社会学の天敵とも言える人々をターゲットとした。私は、より敵意のない人々をターゲットにしようと思う。具体的には、大学の必修授業で「社会学」の用語を詰め込まれ、「理解はできてないけど面白いかも」と感じた学生を、社会学の豊かな空間に誘い込める理論紹介を作りたい。

 私見だが、社会学を学び始めた学生がもっとも理解に苦しむのは、とにかく「理論」の数が多いことである。一つの体系のなかで「定理」や「法則」が多いのではなく、社会学というグループに属していながらも互いに独立した「理論」が乱立しているように見える。そのため、数多くの理論を紹介する前に、まずは社会学と呼ばれる学問営為の特徴を記述する必要がある。言い換えれば、なぜ数多くの理論が併存できるのか、どのように併存しているのかという疑問に応えなければならない。

 必修授業で用語を暗記しただけの学生にとっては、社会学は、大量の概念が水平的に散らばっているように見える。そのため、彼らを対象とした理論紹介は、それぞれの理論を独立に紹介するだけに留まってはいけない。また、単一の問題(たとえば秩序問題)に対する応答の歴史として社会学史を編集するわけにもいかない。必要なのは、なぜ社会学は多様なのかというメタ社会学的視点の導入により、水平的に散らばっていた諸概念に秩序を与え、メタ社会学空間のなかに多様な社会学を再配置することである。

 メタ社会学的視点の導入によって、社会学における諸理論を個別に紹介するのではなく、個別の理論を介した社会学の紹介が可能になる。全体の一貫性が確保され、読者がメタ社会学空間を想像できるような構成であれば、プラサドにおける「読みにくさ」の問題は解決する。加えて、プラサドが伝えきれなかった社会学の実存的価値は、メタ社会学的視点によって鮮明に捉えられる。読者が社会学の諸概念を自在に使いこなせるように、そして社会学者たちの息遣いを感じ取れるように、理論紹介を構成することができるはずである。


2.理論紹介の全体構成

Ⅰ 認識論的問題 ;
Ⅱ 理論的問題  ;
Ⅲ 実存的問題  ;

 今まで「メタ社会学的視点」と記述していたものは、すなわち認識論的視点である。人間は認識作用によって対象を作り出すので、対象の現れ方は認識作用の方式に依存する。その方式があらかじめ定められていないということが、社会学の多様性の源泉である。個別の社会学者は、多様な認識の可能性を享受すると同時に、具体的な認識の選択を迫られる。この選択は恣意的なものであり、ここに社会学者の実存が持ち込まれることで新たな社会学が誕生する。

 社会学が多様だとしても、認識において何を所与とするかはいくつかの型がある。具体的には、デュルケームやレヴィ=ストロースのように「社会(構造)」を所与とする型、ホッブズやアダム・スミスのように「個人(主体)」を所与とする型、ヘーゲルやマルクスのように「関係」を所与とする型が代表的である。

 しかし、人間の認識はそれほど単純ではなく、明示的な表層から非明示的な深層まで、いくつもの所与が重なっていることがほとんどである。たとえばレヴィ=ストロースの構造人類学は、構造における要素の分析では「関係」が所与とされ、「構造」そのものの存在は構造人類学の所与であり、さらに絶対的な客体として「構造」を観察できるという絶対的な「主体」を所与としている。一方、サルトルの実存主義は、実存の分析では「関係」が所与とされ、「主体性」はその前提となる所与であり、さらに主体を絶対的なものにするために歴史の法則性という「社会」が所与とされる。

 何かを所与としなければ、何も見ることができない。しかし、何かを所与に置くと、語りえぬことが発生する。社会学の「理論」の歴史は、この認識論的問題との格闘の歴史だと言っても過言ではない。その格闘は、ブルデューの「ハビトゥス」概念とギデンズの構造化理論、そしてルーマンの社会システム理論をもって、一応の停戦となる。

 所与を自覚的に選択できることが社会学の特徴なので、それは社会における所与を突き崩す力を持つ。疎外された人々がその社会を問い直そうとすれば、それは必然的に社会学的性質を帯びる。有名な社会学者にユダヤ人が多いことや、フーコーが同性愛者だったこと、エドワード・サイードがパレスチナ系アメリカ人だったこと、ブルデューが農村出身だったことなど、自分自身の疎外が社会学的探究の出発点になっている論者は非常に多い。その場合、探求は彼らにとっての実存を賭けた闘争である。ここに理論的価値に回収しつくされない凄みがあるからこそ、実存的問題を十分に扱わない理論紹介は、社会学の魅力を半減させてしまうと考える。

 以上を踏まえて、理論紹介の構成は、第Ⅰ部に「認識論的問題」、第Ⅱ部に「理論的問題」、第Ⅲ部に「実存的問題」を置く。第Ⅰ部では社会学の多様性の源泉が説明されるとともに、社会学が理論と実存の双発機であることが説明され、第Ⅱ部と第Ⅲ部の根拠となる。第Ⅱ部では社会学の理論に注目し、メタ社会学空間のなかで多様な理論を再配置していく。第Ⅲ部では社会学者の実存に注目し、第Ⅱ部で登場した理論がなぜその形に結晶したか、そしてさまざまな論者によって理論がどのように応用されたかが説明される。


3.紹介内容の具体的検討

3. 1. ブルデューとギデンズ

 第Ⅱ部の目玉になるのはブルデューとギデンズである。両者とも、客観主義と主観主義のアウフヘーベンを目指して社会学を再構成した。ブルデューは「構造」を自覚的に所与としながらハビトゥス概念を提示し、ギデンズは「主体性」を半自覚的に所与としながら構造化理論を提示した。

 しかし、彼らは第Ⅲ部でも登場する。まずブルデューは、農村出身がゆえに貴族的文化のなかで疎外感を味わった人間として、さらにアルジェリア社会を分析する中でレヴィ=ストロースの限界を痛感した人間として描かれる。一方、ギデンズは、新自由主義が台頭してきたイギリスにおいて、失墜した社会学の権威を復興しようした人間として描かれる。サッチャーの「社会は存在しない」という言葉は新自由主義の象徴であり、社会学の存在意義を正面から否定する言説だった。

3. 2. ポストコロニアリズムとフェミニズム

 ポストコロニアリズムとフェミニズムは、第Ⅲ部で大々的に扱われる。第Ⅱ部で紹介された理論が、疎外された人々によってどのように応用されたのかが説明される。ここで問題にされるのは、「抑圧」と「抵抗」のジレンマである。

 女性や植民地は、それらを一つのグループとして見れば、抑圧された存在だった。自分たちを抑圧する支配勢力に抵抗するためには、自分たちがひとつの集団となって戦わなければならない。しかし、抵抗のために組織された集団は、その集団の内部のマイノリティを抑圧する支配勢力に転化してしまうのである。抑圧に抵抗するためには集団化しなければいけないが、それが新たな抑圧を生むというジレンマに、疎外された人々は直面する。つまり、疎外された人々は、疎外を廃棄する回路からも疎外されているのであって、その状況との格闘は困難を極める。


補.社会学の理論紹介のために


 これは、私が教壇に立ったときにどうやって「社会学」の講義をするか、という検討である。もちろん、これを初学者に抗議するわけにはいかないので、おそらく「社会学Ⅱ」などと呼ばれる講義の内容になるだろう。もしかするとゼミでの講義になるかもしれない。

 どこまで突き詰めても社会学には研究者の実存が密輸されてしまうのであって、それが社会学の存在意義だと私は理解している。社会学は、理論と実存の両輪によって、学問になりきれない学問としてアカデミズムのなかで特異な地位を占め続けるべきだと思う。

 社会学がこのようなものであるからには、社会学は他の学問にはない複雑さを抱えることになるわけで、それを収拾する仕組みが要請される。それこそが本論で提示した「メタ社会学的 = 認識論的」な視点である。その視点を踏まえることによって、個々の理論の実存的価値を捉えつつ、社会学という空間全体をも捉えることが可能になると思われる。

 これは、「学生」を「学者」へと誘導する仕掛けでもある。先人たちの実存が社会学へと結晶化するプロセスを提示し、社会学者という生き方を学生たちに知ってもらうことで、昇華される実存があるはずである。



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