全ての教育は子供という白紙に描く大人の落書き

みんなは教育というものをどのように捉えているだろうか。
結論から言うとその正体は所詮、子供という白紙に描く大人の落書きである。

良くも悪くも大人は子供に教えたい事を教える。
子どものためじゃなく、大人のためだ。
その大人の望む形に持っていくために。
子供というのは所詮、少し贅沢な大人のオモチャでしかない。

例えば躾という言葉がある。躾というのはマナーのことをさす場合が多い。
例えば食事のマナー、言葉遣い、あとは場に適した行動や落ち着きを教える。
でもこれは実際、大人が自分のためにやっている行為だ。
この場合は"親の為"に子供という白紙に絵を描く。

子供が恥をかかないためではなく、大人が他所から恥をかかない為、要は"教育できない大人"のレッテルを貼られるのが怖いからだ。
なぜなら子供が恥をかこうがどうなろうが別個体である大人には本質的には何も関係ないからだ。
あとは言うことを聞く子供にすることでその後の展開が楽になるから。

別の例を挙げてみる。
学校というのも分かりやすい。学校というのは文科省の指導に基づいて教育委員会があり、その配下が現場の教師たちだ。

教師たちが教えるのは主に勉強と集団生活の仕方だ。
勉強は社会に出る前の基礎的な学力。集団生活は会社等の組織単位で動く場合にその一員としての動き方を学ぶ。

このシステムは明治維新があり近代日本となった時に西欧や工業化の時代の流れに適した形らしいから時代遅れとの声もあるみたいだ。

まあそれはさておき、学校という場合は"お国のために"大人は子供という白紙に絵を描くらしい。

最も究極的なのは自分の夢を継いでほしいとかいうタイプの親、大人だ。
子供の小さい頃、要は最も白紙に近い状態から段取りを始める。
子供が物心ついた頃から親は自身が望む形を描き始める。
小さい頃から聞かされたらそれ以外の選択肢は発想すら消えていくだろう。よっぽど外部の情報が強くない限りは。

子供が中学生になった頃、絵はある程度完成する。この時点で子供の心が親のお絵描きに支配されていたならばよっぽどのことがない限りもう変えられない。その絵の具はなかなか消えない絵の具のようだ。

俺も中学まではそうだった。親父の為に勉強して親父の為に将来金を稼ぐ段取りをしていた。
そのためにバカで出来の悪い俺に投資して貰っていると教わってた。
それで高校の学費も今までの生活費も全て返済しろと言われたのが、高校1年頃だったかな。

親父は俺を金稼ぎの道具として放つために俺を育てた。もっと言うのならその為に俺を作った。

話は逸れたが子供は大人の望むように育てられる。全てエゴで大人自身のためだ、良くも悪くもあるが教育というものの正体はそういうことだ。


もうとっくに忘れてしまったが。
俺の白紙にまだ親父の落書きが少なかった幼少から小学まで、俺の画用紙には何が描かれていたのだろう。




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