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念願のタートルネック出勤に向け、暗黙ルールを書き換える。
「部長、ジャケット買ったんですか?いいですね」
そう話しかけるのは、中途入社のアンドウ君。彼はことのほか、他人の服装にチェックを入れる。その手の事にとんと関心がない私とは真逆の男だ。
「おお、いつもながらよく気づくな~。普通にユニクロだけど…」
ファッション強者のアンドウ君には申し訳ないが、私はジャケットもパンツもユニクロだ。
「全然いいじゃないですか?ユニクロのジャケパンは、オフィスカジュアルの定番ですよ」
ジャケパン?ああ、上下揃いのスーツでない場合はそう呼ぶのか。確かにここ数年はすっかりスーツを着なくなった。上下別の『ジャケパン』は楽だし、ネクタイをすれば顧客訪問時でも失礼に当たらない。あまり意識してなかったが、私も『オフィルカジュアル』なるものの影響を受けているのだろうか…
しかし、この手の会話には、警戒が必要だ。
私が苦手とする、あの手の疑問をぶつけれらる可能性がある。
「そういえば、前々から思ってたんですけど、タートルネックって、やっぱり駄目なんですか?」
やっぱり来たか…
気が進まないが、説明せねばなるまい。
なにせ昼休憩は、まだたっぷり30分も残ってる…
▪️オフィスの服装は『暗黙ルール』に規制される
会社は組織である以上、当然ルールがある。ルールには「しなさい」と「しないでね」があるが、これが就業規則等に必ずしも明文化されている訳ではない。その最たるものが服装だ。会社にもよるのだろうが、これは非常に悩ましい。その会社のなんとなくの雰囲気や文化で「ここまではOK」が暗黙の合意となる。
そして、現時点で当社の『暗黙ルール』は、
ジャケパンまではOK。白っぽいワイシャツにネクタイは必須
である。広告会社としては厳しい気もするが、これでも昔よりはかなりユルくなっている。それでも、ITやクリエイティブ界隈の定番である、ポロシャツやタートルネックは、まだ『合意』がとれてないのだ…
「う~ん。ちょっと今は、厳しいんじゃないかな…」
暗黙ルールである以上、明確に駄目といえないのは苦しいところだ。
▪️駄目である事の、説明が出来ない。
「何か、特別な理由でもあるんですか?」
アンドウ君の口調に、不満の色は感じられない。単純に疑問をぶつけているだけだ。
「う~ん。やっぱりアレだ。業界的にクライアントに失礼だからじゃないかな?ホラ、うちのお客さんって、小売業とかが多いし、その手の事に厳しいだろ?」
これは実際、私が先輩に常々言われて来た事だ。
「ハア…でも僕が入社して以来、ネクタイをしているクライアントの方に会った事ありませんよ?なんならタートルネックの人もいる位です」
確かにそうだな…言われてみれば今時は、上場企業ですら完全私服のクライアントも増えてきた。ネクタイ着用などは、ごく少数派だ。
「う~ん。じゃあアレだ。規律だよ、規律。ホラ、うちって体育会系のノリが残ってるというか…」
これも、実際言われてきたことだ。『服装の乱れは、規律の乱れ』というやつだ。
「え~。じゃあ僕、規律乱しませんからタートルネック許して下さいよ~。タートルネック、着たいっす!」
そう割り込んできたのは、同じく休憩室でランチ中のヤマダ君。こやつも折に触れては、私に『暗黙ルール』の変更を迫る。ああ、確かにその通りだ。クライアントがどうとか、規律がどうとかは方便でしかない。ここは真の理由を言ってやろうじゃないか。
「社長は、タートルネックじゃないだろう?」
▪️暗黙ルールを打破できるのは、トップのみ
「アっ…そういう事ですか。社長っていつもピシっとしてますもんね」
アンドウ君は察しが早い。その通り、当社でタートルネックが憚られるのは、社長がスーツ&ネクタイスタイルだからだ。その理由をはっきりと尋ねた事はないが、おそらく『クライアントに失礼』『規律の乱れ』が要因であるのは間違いない。私にそう教えてきたのも社長の世代だ。
「え~。それって、単に空気読んでるだけって事ですか?社長に聞いたらいいじゃないですか?『タートルネック』でいいですかって…」
確かに私、そしてその他ほとんどの社員は、空気を読んでいる。ヤマダ君を除いて。
「あれ?でも部長も昔はスーツだって言ってましたよね?ジャケパンは、社長に注意されないんですか?」
アンドウ君の指摘はするどい。言われてみれば確かにそうだ。
「確かに何も言われないな…ていうか、少しずつジャケパンが増えてきたから、気づいてないのかも」
「それ、使えるかも知れませんよ?」
アンドウ君は、何か閃いたようだ。
▪️既成事実を、積み重ねればいい。
「使えるって?」
「少しずつ、タートルネックを既成事実にするんです。ジャケパンが今や普通になったように…」
なるほど。しかし具体的にどうする?たった1人でもある日いきなりタートルネックでは目立つ事この上ない。ジャケパンが気付かれなかったのは、見た目がスーツに似ているからだ。
「確かに、ジャケパンと同じようにはいきません。でも、当社の暗黙ルールで、カーディガンは許されてますよね?」
確かにその通り。暗黙ルールという言葉をさりげなく使いこなすあたり、アンドウ君は優秀だ。
「カーディガンを少しずつ、タートルネックに近づけるんです」
お?面白そうだぞ?
「まず、カーディガンを『首元までボタンを留めれるタイプ』に変更します。初めは胸まで留めてしっかりとネクタイを見せる。そして徐々に留める位置を上げていくと…」
「成程…そうすれば、まずはネクタイを外しても気づかれないと…」
「お察しの通りです。まずこれで第一段階は終了。次はカーディガンを『襟付きタイプ』に変更します」
読めてきたぞ…やはりアンドウ君は優秀だ。
「先ほどと同じく、導入期は襟を立ててはいけません。徐々にです。徐々に、気づかれないように角度を調整しながら、少しずつ『襟を立てていく』これで第二段階は終了です。そして第三段階は、その襟付きカーディガンを『ハイネックタイプ』に変更する…」
「第三段階を切り抜けたら…」
「もうあとは、一人づつ、慎重にタートルネックに切り替ていくのみです」
「完璧じゃないか…」
*
服装に限らず、組織運営には「いつの間にか許されている」事は多い。それは良くない事だろうか?
そうではない。ルールとは往々にして事実追認の形で明文化されるのだ。
アンドウ君の試みが成功すれば、就業規則に「タートルネックの容認」が追記される。少しづつ、積上げればいいのだ。その事実を…
「いやあ、このやり方いいですね!僕、デニムで出勤したと思ってたんです。どうですか部長?このアイデア…」
ヤマダ君は、何が何でも私服で出勤したいらしい。
いくらなんでも、デニムはやりすぎたろう。
「もう、やってますよ」
「え?」
「エッ?」
アンドウ君が、何を言っているのかわからない。
「今履いてるのは、黒のデニムです」
やはりアンドウ君は、優秀だ。
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