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「わかりやすさ」には、人々の幸福度を上げる位の可能性がある。

人の話を聴いてるとき、いつもそれが「わりやすいか」「わかりにくいか」を考えてしまう。

長らく習慣になっているが、それにはれっきとした理由がある。


うまくいかない原因は「わかりにくさ」


仕事がうまくいかない時は、大抵「わかりにくさ」に端を発している場合が多い。

■背景や状況を説明できない

■何を伝えたいかを説明できない

■伝わったかどうかを確認しない


これらが要因で、個人にとどまらず、チーム全体が方向を誤り、時間を浪費して結果もともなわない・・・というケースが多々みうけられる。

自分はそれを自覚しているので、ちょっとした報告でも「わかりやすさ」が気になってしまうのだが、必ずしも周りはそうではないらしい。


「わかりにくさ」は、なぜ放置されるのか

上記のような「わかりにくさ」が気になり、時には部下に指摘する人は少数派のようにみえる。
なぜだろうか?


■そもそも「わかりにくい」と感じていない?

■「わかりにくい」は性格の一部と思っている?

■指摘できる対象が、直属の部下などごく限られる?

他にも要因は考えられるが、「わかりにくさ」の問題は、かように顕在化しない傾向にある。また、そんなことをいちいち気にして人に指摘すること自体、好ましい性格とは思われないだろう。


「わかりやすさ」がもらたす可能性

それでも「わかりやすさ」「わかりにくさ」が気になってしまうのは、そこに大きな可能性があると感じているからだ。平たく言うと以下の理由から「もったいない」と思ってしまう。

■「わかりさすさ」で生産性が上がる

■「わかりやすさ」で仕事の質が上がる

■「わかりやすさ」で幸福度があがる

まず生産性があがるのはいうまでもない。
理解が深まれば、仕事の質もあがるだろう。

幸福度はどうだろう?



わからない事がわかると、素直にうれしい

新しい事がわかると、得した気分にもなる

相手の言ってる事が「理解できたら」親しみも感じる


これらは、ちょっとした幸福と言えないだろうか。

大げさかもしれないが「わわかりやすさ」は社会全体の生産性と満足度、ひいては幸福度を上げると思っている。

逆に言えば「わかりにくい」発言や説明は、ことごとくその機会を失っているともいえる。

故に、あらゆる場面で「わかりやすさ」が気になってしまう。

その事自体を「わかりやすく」説明できれば良いのだが・・・。

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