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「遊び人放浪時代(抄)」 小説・本多裕樹

「遊び人放浪時代(抄)」 小説・本多裕樹






初めて自分が展覧会に出品したのは、学校展でありました。あの時はまだ23歳くらいだったと思います。画家としては遅いスタートだった。


23歳であれば早々に展覧会で賞を取って華やいでいる時期ではありますが、そういうエリートコースからも外れてただ描くしかなかった。

そんなある日、休みの日は友人と遊び青春を謳歌していた。

特に地元の友人と街をまわり様々な店を見た。


「君はいろんなものを見た方がいい」と友人は言い様々な昼ごはんやおやつ、菓子、たこ焼きなど奢ってくれた。

「その代わり君の作品を譲ってほしい」


つまり、私の絵を買っていた。裏取り引きであったが、それでも遊ぶためにはそう言うのも大事だったし、絵の良さもわかってくれる人がいるというのはありがたいことである。


その友人も仕事らしい仕事をしない身分で、いわゆる田舎のお金持ちであり、私の住む地域では名士の家であった。


「酒は飲まんの、僕は毎日、昼にチューハイを飲むが、君は」


「私はまだ飲めないのだ。」

「なぜ、」

「まだ、成功していないから」

「そうか、では僕が君の分の酒を飲むよ」

そう言って、家では飲んでいるそうで私の前では飲むことは無かった。気を遣ってくれたのだろう。

ある道楽者は、スポーツショップの靴を見て店員にこう言う。「そこの壁からあそこの壁まで全部ください。」

店員は驚くこともなく、支度をした。こういうことはざらにある名士の友人は購入する。

「・・・・。」私は何も言わない。いかにも自然だったから、何も罪悪感も無い。当時の私はそんな友人の買い物の手段が芸術的にさえ思た。

こういう人が私の芸術を支援しプチパトロンになってくれたのだった。


どこに行っても豪快な買い物、

「・・・・。」私は何も言わない。これがお金持ちだと思わなかった。それが自然に思えたからだ。

「・・・・。」

そのかわり、私のおすすめスポット旅のエスコートは私がした。まるでアルチュール・ランボーとポール・ヴェルレーヌのように彷徨うように街を放浪した。

「たこ焼き食べよう」

「そうしよう」

会計は全て名士の友人が精算する。私自身も成功しなくてはならないという感覚が薄くなるほど楽しい日々で、学業にも精進できていた。

遊ぶことは大事なのではと、自然に思ったし、何も疑問を抱かなかった。私は名士の友人を騙していたし、そのことも知っていただろう。そうしたモラトリアムが日々の遊びと自室における制作によって傑作を数々描くことになる。

「君はもっと遊んだ方がいい」と毎日午後7時には携帯電話が鳴り延々と話す。雑談の技術もそのころ知る。

雑談も技術である。様々な話題について行かなくてはならない。そこで様々なテレビ番組を観て修練した。私はテレビを見ないタイプだったが無理矢理にでも観た。それが話題の共有にもなった。あと、文学の知識が大いに役に立っていた。私は高校の時、図書館に毎日通い本を読み、レンタルもしその当時、明治から昭和、平成までの日本文学史の流れをある程度、知っていた。その話題をすると喜んでくれた。

「私は高校生の時、文士を目指していたのだよ」

「いや、君はお笑い芸人の資質を身につけよ。それが面白いからね。」


夏になると、「プールに行こう」

私は「では、私が指南しよう。ビシビシ行くから」

「それは待ってくれ、」

「私は厳しいから、覚悟したまえ」

「えええええ、」

結局、プールには行くことが無かった。なぜ、名士の友人はプールに行きたいと言ったのは、前日、テレビで水着でお笑いをやる放送を観てその影響であろうかと推理したから、意地悪なことを言い追い詰めてみたのだ。


唯、放浪の旅、を何年続けただろうか。

遊ぶことに関しては合格と言えるくらい楽しんだ。あの時、とても楽しかったし、高校時代の灰色の青春を経験していた私は本当のモラトリアムと遊び人時代を満喫した。

「ほら、君は遊ぶ必要があるのだよ、もっと自分を解放しなさい。時代なんてどうでもいい、今のこの瞬間を謳歌せよ」そうしてその言葉を実行し、私の固まっていた精神に健康の兆候が現れてきた。それは精神病が治るのではと思うくらいの開放感だった。

私は名士の友人に治療されていたのではと考えた。

「君はいつも固いんだよ。もっと遊べ、そんで酒を飲めるようになっていい作品を描け。」そう説教されたが、その制裁は遊びであるので快かった。

「今度、君に画廊を紹介する。一緒に来い」ひと街ふた街過ぎた繁華街にそのギャラリーがあり、私は売り込んだ。最初は臆していたが名士の友人が交渉してくれて、私はそのギャラリーで作品を出品するチャンスを得た。そのギャラリーは、今は閉廊して無いが伝説的なギャラリーになっている。そこは「ぎゃらりーパステル」だった。

その後も中華料理屋で茶を飲み、雑談していた。

「やっぱり、君の絵は完売したね。」
「なんか不思議だよ。」

「水彩は君は上手だから、僕の見込んだ通りだよ」

「あなたもいろいろかつて私の絵を献上したけど、ここまでお返ししてくれるのはありがとう」

「うんうん」


われわれはその時代、いわゆるプー太郎であったが、プチ高等遊民で、人生の大事な時を開放しまくった仲になった。


今では考えられないが、。私は遊び人時代があった。大変な時代だったと思うが、私は精神病を克服に可能性を帯び、様々な展示にチャレンジし成長し、そして芸術の世界で戦う事になって、様々な作品を描き傑作を制作した。


あの、遊び人時代は、私にとって本当の青春だった。20歳代の青春だった。


もう、あの頃には戻れないが、思い出として、また心の栄養になり今も精進しているのだ。






2024年9月15日

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