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個人的なことは政治的なこと

40歳手前でクリニックに行った時、長男の時にお世話になったおじいちゃん先生に「まぁ妊娠できるでしょう」と声を掛けられた。夫はその先生が良かったんじゃないか、と今でもぶつくさ言う。その先生の診察後、看護師さんに呼ばれ、申し訳なさそうに「年齢を考えたら急いだ方が良い、その先生はちょっとのんびりしているので・・・できれば違う先生に変えては?」と助言された。その時は、先生のアドバイス通りにして長男をすぐ授かったのに、なんてことを言うんだろう。しかも陰で・・・と苛立ちすら覚えた。

何が正解か分からないので、なんとも言えない。あのままのんびりタイミングを続けていたらどうなっていたかなんて、分からない。今のクリニックでも、43歳や44歳の人が、“体外受精や人工授精の合間の自然排卵周期にタイミングで自然妊娠した”という事例が2ー3ヶ月に一度はある。それを見ると、ひょっとして・・・?とも思うのだが、実際それは妊娠事例であって、出産事例ではない。本当のところ、出産まで至った事例はほんの数件、いや、0なのかもしれない。

夫は今のクリニックが嫌いだと言う。院内の雰囲気が暗くて機械的で、(携帯呼び出しのためか)そこにいる人はずっとスマホを覗き込んでうつむいているからだとか。

夫は検体提出の時、いつもタイミングが悪く、疲れていたり眠れていなかったり、あるいは禁欲期間を間違えたりする。そして、「だって知らなかった」「だって分からなかった」と言う。

その度に、私はこれまでの経緯と、いかに40歳を過ぎてからの妊娠出産が難しいかを数値を交えながら説明したり、時には夫の検査結果を見せたりして解説する。が、頭に入らないらしい。

私は毎日のように薬を飲み忘れないことに気を使い、月経周期を把握したり、基礎体温をつけて入力し、仕事との日程を調整して診察予約し、通い、診察の日に仕事ができない言い訳を考え、先々のことを想定してカレンダーとにらめっこしている。一方で迫ってくる43歳のリミット、長男との学年差、万が一出産できた場合の生活パターンや保育園問題、仕事との関わりなどなど、まるで頭が計算機になったかのようだ。

やたらに能天気で、病院の文句しか言わない夫に何度となく腹を立てた。私自身はホルモン治療で体重は産後から8キロ近く増加して、服のサイズが変わったほどだ。あれほど太ることが嫌で、でも太りやすいタイプで、自分としては20代から10年がかりで体質改善に努力してきたのに、いとも簡単に崩れてしまったのはとても悲しく、辛く、鏡を見るのが嫌だ。幸せで太っているのではないのだから。食事も気を遣って、独身時代は時間さえあれば、健康的なレシピの開発に余念がなかった。もしかしたら、そのお陰で長男を授かれたのなら、報われたとも言える。「朝、10分でも早く起きて、5分ぐらい散歩したり走ってきたら?」と何度となく夫にぶつけてみるが、メタボでPCを膝の上で抱える生活は一切変わらない。夕食後、深夜にスナック菓子を一袋まるごと食べていることもしょっちゅうだ。100kcalを減らすために私があれこれ夕飯を工夫しても、結局は就寝が遅いためか?深夜に空腹が襲ってくるらしい。長男と一緒に寝て、朝早く起きたらどうかと言うが、そんなに簡単には変わらない。

「親になったのは私だけなの?」

だんだんと殺伐としてくる。そもそもこの人の間にもう1人授かったところで、ワンオペ育児は変わることはなさそうだ。そして何より、障がいのある人と生きることの価値をずっと説いている教育者である自分自身が、情けないことに、いざ自分自身に障がいのある子どもが生まれたとすれば「無理だ」と思ってしまうのだ。

ワンオペで、高齢で、親の介護も出てくるだろう。それに私は周囲に子育てのネットワークが築けていない。同世代で助け合える仲間がほとんどいない。ママ友で集まってパーティーをしている人たちがいるが、どうやったらそんな風になれるのか信じられないくらいだ。6時に迎えて、夕飯準備して、7時に食べさせて、風呂に入れて、9時に就寝。10時ごろから12時まで家事やら仕事やら何やらして、7時前に起きて、8時に送り出して、後片付けもほどほどに出勤するのが精一杯な毎日だ。高齢のせいなのかもしれないし、体力が落ちているからかもしれない。

時々思う。子育て(したい)世代、介護をする(したいと思っている)人たちが、なんの気兼ねもなく、10時ー16時ぐらいで仕事を(したければ)して、誰にも責められることなく、将来を不安に思うことなく暮らせる世の中になっていないのはなぜか、と。どうして子どもが欲しいと思って、こんなにひとりで孤独に闘わなければいけないのか、どうしてこんなにも何百万もお金をかけなくてはいけないのか。どうしてみんなで子どもを育てたり、子どもの成長を喜んだり、老いていくことを喜んだりできないのか。

多分、高齢だから大変なのではないのだ。世の中が命を育み、命を看取る、つまり命をつなぐということを大事にしていないから、こんなにも私たちは大変なのだろうと思う。

息子の寝顔を見ながら、謝りたくなることが何度となくある。この子が自分と同じ40歳になったら、私はもう80歳近い。夫は90歳だ。働き盛りで、父親になっているかもしれない。でもその行く末を見ることができない可能性が高い。私は40歳の時に父が亡くなった。今でも自分の仕事っぷり、親っぷりを見てもらえないのは、あれこれ語り合えないのは寂しいことこの上ない。だが、妹や妹の家族、子どもたちに救われているところは大きい。息子はひとりで向き合わなければいけないのかと思ってしまうのだ。もうすぐ6歳にもなるので、おそらく一緒に遊ぶことはできないだろうが、やはり誰かきょうだいが居れば・・・とつい思ってしまうのだ。


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