確執
息子が産まれてからすぐは、予想をはるかに上回る様々な痛みが体を襲ってきた。直後は痛すぎて、夜中に何度もナースコールをして麻酔を入れてもらった。その上、帝王切開で一晩体を固定されただけで、床ずれのようなものが臀部にできてしまった。出産直後は、授乳に行く時はまるでゾンビのような歩き方だった。帝王切開の傷跡はなかなか癒えず、下手に動くと時々お腹が裂けるんじゃないかという恐怖があった。テープを貼ったあたりは痒みもひどいが、掻けない。出産後はなんだかよく分からないが、骨盤を引き締める必要があり、きついガードルのようなものを購入していたが、あまりに痛いのでそれは諦めた。
赤ん坊を抱いて立ったり座ったり、肩や腕が張ってくる。睡眠不足に加えて、家に引きこもっているために運動不足になる悪循環。授乳も長引くと、不快感すら出てくる。しかし食べ物など油断した途端、カッチカチに胸が張って腫れ上がり、少し触れるだけでも痛くなるのに本当に驚いた。
そのうち、膝に痛みが走るようになった。夜中に寝かしつけようと抱っこしてゆらゆらしているうちに、膝に負担がかかるのか。まさか自分がこの年齢で膝サポーターなど必要になるとは思っていなかった。
体は極限状態で、ふと訪れる赤ん坊の愛らしい姿に感動したりする。ただ、それは一瞬だ。実際のところ、頭の中は1日をどう1人で乗り切るか、いつまた泣き出すか分からないのに怯え、例えば眠ってしまって気がつかないうちに、新生児無呼吸症候群とか何かで死んでしまわないかとか、ビクビクしている。それに授乳しているだけでなく、諸々の用事はひっきりなしに発生するものだ。オムツが足りない、ミルクが切れた、服がサイズアウトした、湿疹が出たので病院へ連れて行かねば、治らなければ違う病院を探さねば、検診の日、予防接種の日程 etc.etc.etc...何をしているのか分からないうちにすぐ夕方がくる。自分も食べなければいけないので、夕食のことを考えたり、買い物に出たりする。夜できればぐっすり寝て欲しいと思い、お風呂に入る時間や、乳児とてしっかりあやして遊んで・・・・
完璧を求めているわけでもないし、完璧など程遠い毎日だった。隙あらば寝てしまいたい、隙あらばリラックスしたい、と思う。
「人に頼ったら良いんだよ。」
と、色んな人に何度となく言われた。だけど、誰に頼れば良いんだろう?その頃、両親は妹の子ども達の世話をもう何年も本格的に続けていて、ゆっくりとした老後の自由時間を持てていないことに苛立ちすら覚えている様子だった。孫は可愛い、だけど、責任を持って世話をするつもりではなかった・・・という感じがしていた。妹は逆に世話をしてもらってもちろん感謝しているが、娘が大変で困っているのにどうして助けてもらえないのか、と不満に思っている様子だった。私はそれがどちらが正しいのか分からないとずっと思っていた。両親は結婚したんだから、家事育児など自力で・・・と思うのだろう。いかにも昭和っぽい。自分もそうしてきたからだろう。だが本当にそうなんだろうか。私たちは結構小さい頃には母の実家に居たり、母の姉の家にしょっちゅう居たし、周囲に沢山子どもも居て、近所の家を出入りしていた記憶がある。
私の周囲は、親に頼っている人が多く、自分の親の家の近くに自宅を建てるパターンも多い。そうしなければいけない世の中になっているわけだ。だが、例えば、中には親にも頼らず、専業主婦あるいはしっかりと産休・育休が保証されている職業につき、夫も協力的で早く帰れるタイプの人もいる。そういうモデルがあると、親に頼って、産休育休もままならない仕事なので、すぐに復帰し、夫は非協力的あるいは長時間労働者で、逼迫した生活をしている人は、「それ(そういう夫・仕事)を選んだ自分が悪い、自己責任」ということになってしまう。
この辺りは私の母の言動からもひしひしと伝わってきていた。私が母に頼らない、頼りたくない、頼れないのはそういうこともあるのだ。頼れば夫がますます責任を持たないことも大きいが。困った時、素直に「お願い!」と言えたならどんなに良かっただろうか。そして、父などは何も言わないし、子どもが産まれたことはとても喜んでいたことは知っているが、母以上に孫の世話に明け暮れるようなタイプではないこと、時間が自由にならなければ苛立つこと、そして母がまた娘達と父との間で困るだろうことも分かっていた。だから、内心は本当に恐る恐る、仕事の時に預けることをお願いしていた。そして、「なんでそこまでして仕事するの?」というメッセージを受け取っては、猛烈に腹を立てていた。
私の仕事はある特殊な分野の専門家であり、本当は安定した、それこそ両親が最も望んでいた職業についていたのを辞めて、いちから出直して修行する中で、本当に幸運に恵まれて得られている仕事である。母にそれを理解しろとは言わない。しかし、幼い頃からそうかもしれないが、常に自分自身の仕事を評価されず、「人並みより少し優れても、優れすぎず、上手に生きること」ができているかどうかでしか人を見ずにおいて、その上中身もよく知らない他人のことを持ち上げて、「ちゃんと●●している人もいる。」と言われる。
これは私の母だけではないことは知っている。母親は娘に、優秀であることを期待するが、特殊であったり、男性よりも優位に立つことは嫌い、人並み(それはおそらく現代においてはとっくに上流階級のものになっているのだが)のことを手に入れることで安心する。
ただ単に子守りをお願いしたいだけなのに、こんなにも葛藤が生まれる。妹が子どもを産んでから、少しは理解していたつもりだったが。仕事をする母親、子どもと常に一緒に居られない母親を批判するのが、最も身近な自分の母だったとは。98点のテストを褒めてくれず「どうして100点取れなかったのか?」と言われたことを今でも覚えているように、努力を認めず、体裁だけ整っていることを求められていたことの虚しさと怒りーまるで思春期の頃の親に対する嫌悪感ーが、育児の中でも出てくるとは思ってもみなかった。
家族なのに、全く理解できなくなってきて、蓋をしていた小さい頃の嫌なことばかりがつらつらと蘇ってくる。そして、自分を未だに支配し、コントロールしている親の思考や言葉に対して心底嫌になった。
「ご両親が近くなんですね。それは良いですね。」
と、しょっちゅう言われる。居ないよりは良いかもしれないし、実際に助けてもらったことは何度もある。けれども、助けてもらうたび、仕事をする母親に対する差別や無理解を身近な親の中に感じることになるのだからなんとも言えない。身体の痛みと心の痛みがあるとすれば、どれほど辛い身体の痛みよりも、孤独感の方が辛かった。
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