すべての者が復活する
死後のことについて、私たち人間には秘められており、全貌が明らかにはなっていません。しかし、ある程度、聖書にはその神秘を知るヒントが書かれています。
教会でも、死んだらすぐに天国とか地獄に行くと考えている人は多いかもしれません。しかし教会では伝統的に、キリストの来臨と復活を教えており、すぐに天国や地獄へ行くという話は、その教義とは矛盾するでしょう。また、主の祈りには「御国を来たらせたまえ」とあるように、すでに天国があるのなら、この祈りも矛盾するとも言えます。
さて、冒頭に示した聖書の箇所には、すべての者が復活すると書かれています。意外に思われるかもしれませんが、ここには、信じる者が復活する、であるとか、洗礼を受けた者が復活するとは書かれていません。「墓の中にいる者は皆」とかかれていますが、「皆」は「全て、全員」という意味であり、「墓」とは「記念、記憶、記念碑、墓碑、墓」などの意味を持つ単語の複数形です。「死者はすべて」という意味にも取れますし、「憶えの中にある者はすべて」とも訳せますが、後者の訳ならば、「憶え」のところで単数形が使われるでしょうから、一般的には「墓の中にいる者は皆」と訳して問題ないと思います。つまり、無条件ですべての死者が復活すると書かれているのです。ただ、その復活した後の行き場が違う、ということに注意が必要です。
29 節を直訳すると「そして、出て来る。善いこと(複数)の作成者は命の復活の中へ、一方、無価値なこと(複数)の実施者は裁きの復活の中へと」となっています。裁きというのは、直接滅びを意味しないと思います。神によって最終的な裁きを受けるということを意味します。主イエス・キリストは、一緒に十字架刑に処せられているときに回心した強盗に対して、「あなたは私と共に今日、楽園にいる」とおっしゃったことが重要です。最後の最後であっても遅くないということを意味するのだと私は信じています。
聖書は、死ぬことを「眠りに就く」と言います。そして、昔は教会では土葬をして葬りました。それは、人間が土から造られ、土に還り、復活の時まで眠っている、という信仰に由来します。それは、すべての人が等しく、最後の復活の時まで眠りに就くことを意味するのです。
新約聖書の末尾は、黙示録という預言の書で閉じられています。黙示録の 20 章を読めばわかるのですが、終末には第一の復活、第二の死というものが現れます。直訳すれば「最初・復活」「第二・死」となり、この二つは対比されています。その方がわかりやすいかもしれません。ただ、以下は聖書協会共同訳で引用します。
少し長いので少しだけ飛ばして、そのすぐ後の 12 節からも引用します。
ここを読むと、「最初・復活」が意味するところは、最初に殉教者が復活することを指しているように読めます。でも、復活にはもう一段階あって、千年後に「その他のすべての死者」が復活するように読めます。ただ聖書には「第二の復活」という言葉は出てこないのですが、黙示録でもヨハネによる福音書と同じように、すべての者が復活して裁かれることが書かれています。
このように、聖書によると、すべての人が復活し、裁き主と対面して裁かれることがわかります。洗礼は救いの条件ではなさそうです。十字架上で回心した強盗は、死刑囚である犯罪人であり、洗礼も受けていませんが、おそらく火の池には投げ込まれなかったと思います。なぜなら、回心せず、キリストを罵った犯罪人と対比して福音書に書かれているからです。
キリスト・イエスは、すべての人を救うためにこの世に来られました。そのために神が人となって来られたのです。
私たち人間は 100% 信じることはできないように、信じることが 0% ということもないと思います。少しでも信じる気持ちがあれば、ありのままの自分の言葉で、神様にイエス・キリストのお名前を借りて祈ってみることをお勧めします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
あなたにイエス・キリストの恵み、聖霊のお導きがありますように†
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