まえがき 読んでいただき、ありがとうございます。この note の前書きとして語らせていただきます。 世の中は目まぐるしく移り変わっています。明らかに世界中の人々に対して、悲しみ、恐怖、不安を掻き立てる悪の仕業が存在しています。 このような激動の世の中で、このような、悲しみ、恐怖、不安にさいなまれている方々もいらっしゃるでしょう。その不安な気持ちが少しでも消えて、安心と平安を得られるヒントになればと、この note を始めてみました。 Web 上には様々な情報、都市伝説
一口に仏教と言っても広すぎるかもしれないが、殊に原始仏教においては、この世における緻密な観察から導き出された哲学的な解であると感じる。 だから、私にとっては仏教は異なる宗教という並列・対立するような概念よりも、信仰に対する科学のような位置として捉えている。 信仰と科学とは両立可能である。科学は私から見れば、この宇宙世界の物理的な部分の観察によって得られた解(のはず)である。「のはず」と書いたのは、仮説の段階のものが、まるで定説かのように教えられ、説かれている現状があるからで
情報化社会という言葉があるように、最近は情報至上主義の傾向がある。しかし、情報の量は氾濫しているが、インターネット上のそれは玉石混交である。 しかし、何が本当で何が嘘であるかの判別は、又聞きではなく一次資料を確認することや、意見が割れている場合は、すべての立場の情報を吟味することが重要であるが、一次資料であっても、その判別がなかなか難しいこともある。 しかし、情報に囚われすぎないよう、注意する必要があると思う。先に引用した聖書の言葉の通り、情報や知識は、この世で渡り歩くため
死後のことについて、私たち人間には秘められており、全貌が明らかにはなっていません。しかし、ある程度、聖書にはその神秘を知るヒントが書かれています。 教会でも、死んだらすぐに天国とか地獄に行くと考えている人は多いかもしれません。しかし教会では伝統的に、キリストの来臨と復活を教えており、すぐに天国や地獄へ行くという話は、その教義とは矛盾するでしょう。また、主の祈りには「御国を来たらせたまえ」とあるように、すでに天国があるのなら、この祈りも矛盾するとも言えます。 さて、冒頭に示し
聖書には天使の存在が出てくる。基本的には「遣わされた者」という意味の単語で、ヘブライ語ではマルアク゜、ギリシャ語ではアンイェロスという。英語の angel は、このギリシャ語に由来する言葉である。ちなみに、旧約聖書の一番最後の書にマラキ書(マルアヒー)というのがあるが、単語末尾のイーは「私の」という意味の接尾辞なので、これは「私の使者」という意味である。もうひとつちなみに、カ行に半濁点をつけたものは、無声摩擦音つまり痰を出すような音のつもりで記述している。 日本語では「天使」
聖書は神様が私たちに宛てた手紙である。 それに対して、古文書は古い文書のことである。 聖書の成立は古い。しかし、古文書のように扱うべきではない。なぜなら、それは現代に生きる私たちにも宛てて届けられている神様のお言葉なのだから。だから、新聞を読むよりも、日めくりカレンダーを見るよりも、今日の運勢のコラムを見るよりも毎日聖書を読んだ方がいい。 そういう意味で、聖書と並列にシュメール文明のなんたらとか、旧約の外典とか偽典を持ち出してくる情報が最近、散見されるが、古文書の類は、単なる