『碧と海』 連載小説【41】
処置室を出ると、桂木と碧が白いソファに座って待っていた。
二人の顔を見たら、驚くほどホッとした。なんだか、長い長い旅から帰ってきたような気分だった。
いや、本当に長い旅だったよ。
そして俺は、横浜に帰る前に数回カウセリングを受ける事になった。つまり、様子見、ってこと。
俺たちは碧が運転する軽ワゴンで『アリゾノ』に帰った。
「碧、お母さんはどうだった?」
隣で運転する碧に聞いてみる。そう、碧も大変だったのだ。
「あぁ、うん。生きてた」
「そっか、よかった」
「海斗が、お巡りに言ってくれたんだろ。ありがとな」
「いや、言っただけだし」
碧の母親を刺したのは、思っていた通りあのジャラ男だ。碧がプリンスホテルから逃げた事で、客だったヤバい連中から制裁を受けたらしい。それに追い打ちをかけるように、碧の母親が彼から逃げようとした。夜中に荷物をまとめて出て行こうとした所に、運悪く遭遇し、修羅場となった。男は持っていたナイフで彼女の背中を刺し、逃げた。近所の人の通報で救急車とパトカーがすぐに来て、母親は一命を取り留め、逃げた男は車で田んぼに突っ込んでいる所を逮捕された。碧は、ぼそぼそと、でもちゃんと一部始終を話してくれた。
「母親と話したよ。少しだけど」
「なんて?」
「いや、俺、何を言ったらいいのか分かんなくて。したら」
信号が赤になり、碧は柔らかくブレーキを踏んだ、
「あたしはもうお前のお母さんやめたから。だから、もう会いにこないで。って」
俺も、桂木も、黙り込んだ。
「俺、会わないよ」
信号が青になり、碧はゆっくりアクセルを踏む。
「碧、恨んでる? 母親のこと」
「恨む?」
「お母さんが、碧にしたこと」
「……恨んでも仕方ないだろ」
碧の横顔は、ちょっとイラっとしてしているようだ。きっと恨んでなんかいないのだろう。だって、碧はずっと母親に喜んでもらいたかったんだから。碧の言葉を聞いて少し安心した。だって、俺も母さんのこと恨めない。母さんは間違ったことをしたかもしれない。でも、だからって恨んでも仕方がない。
「碧はマザコンだな」
「お前っ」
碧がグーで肩を思いっきり殴る。その拍子に車が左右にブレる。
「痛いっ、し、危な」
ふふっ、と後部座席から桂木のため息が聞こえる。
「海斗の事待ってる間、百花ちゃんに言ったから。お前が変態野郎に喰われたこと」
「うっっそ」
振り返ると、桂木は神妙な面持ちで、仏様にするみたいに両手を合わせる。ちーん。
「いや、ないし。喰われてないし、未遂だし」
「いいからいいから。私、佐倉がどんなでも大丈夫だから」
車の中に碧と桂木のクスクスという笑いが広がる。
「お前らっ、くそ」
俺はふて腐れて、窓枠に肘をついて外を見る。空よりも暗い森が広がっている。サイドミラーに映った俺は、楽しそうに笑っていた。
アリゾノに戻ると、俺たちはビーチに出て花火をした。花火をしながら、缶チューハイを回し飲みした。宿泊客の忘れ物を碧がくすねたものだ。酔うほどの量ではないのに、俺たちは酔っぱらったみたいにはしゃいだ。火薬の匂いにまみれて、砂だらけになって、笑い転げた。
「ねぇ、なんでこんなに可笑しいんだろ」
ふと俺は聞いてみた。
「花火にヤバいクスリでも混ざってんじゃねぇ」
ロケット花火を砂に差し込みながら桂木が言う。
「やばい、チャッカマンがない。どこいった? 百花ちゃん持ってる?」
「え〜、さっき碧くんに渡したじゃん。ロケット飛ばないじゃん」
「もう、ロケットよくねぇ」
俺はもう、面倒くさくなって砂の上に寝転がる。
「百花ちゃん、ライターとか持ってないの」
「持ってるわけないじゃん。何、持ち歩いてるように見える?」
「おい、海斗。寝てないでチャッカマン探せよ」
「寝てないよ。寝てないけど、なんか……」
空には限りなく満月に近い月が浮かんでいて、その月がぼんやりしたりふたつに見えたりしている。
「また見つけた」
「チャッカマン?」
「永遠を……。
それは、太陽と解け合う海だ」
ふと、頭に浮かんだ一節を声にする。
「何、それ」
ロケット花火を諦めた桂木が、砂の上に足を投げ出しながら言う。碧も諦めて寝転がる。
「ランボーの詩だよ。
また見つけた、
何を、永遠を……。
それは、太陽と解け合う海だ」
初めてのキスの相手、青山さんが好きだった詩だ。彼女の影響で、俺も何度も何度も口にした。彼女が好きだったのは中原中也の訳だったけど、今思い出したのは、誰の訳だったかな。彼女は今、他の誰かとランボーについて話しているのかな。
「月を見てたら、なんとなく思い浮かんだ」
「月? 太陽じゃないのに」
「月だって同じだよ。昇って沈む。その繰り返し。永遠に」
「永遠なんて、罰ゲームみたいだ」
碧が吐き捨てるように言う。確かにそうだな、と思う。
「俺さ、全部思い出したんだ。誘拐されたこと。その時何をされたか。やっぱりそれがトラウマになってたみたいだ。そのせいでセックスもマスターベーションも出来ない。謎は解けた。解けたけど、なんだろう。解けたから、なんだってんだ」
俺も、吐き捨てるようにいう。なんだってんだ、ちくしょう。
「でも、思い出せてよかったと思う。私は」
桂木は相変わらずぶれない。
「怖かったんだ。欠落してたのは怖いって気持ちだった。恐怖だったんだ。俺にマスターベーションもセックスもさせてくれないのは、恐怖だったんだ」
碧も桂木も黙り込む。
「あの男がさ、気持ちいいって言えば言うほど怖かった。あいつが一人でする所をずっと見せられた。俺を見ながら、あいつは……。俺は、あの男と同じ事は出来ない。傷だよ。あの男は、しっかりとエグい傷を俺に刻みやがった。俺は、やっぱり、出来ない。あいつと同じことをするのが怖い」
楽しい気分はすっかり消えてしまった。俺が消してしまった。
「永遠なんてないから」
碧がぼそりとつぶやく。
「永遠に続く事なんてない。俺が言うんだから、信じろよ」
「私は、信じるよ」
俺は、桂木と碧が俺の両隣に座っている事に気付く。
月の光が引き延ばされ、歪んで滲む。
空が白み始め、水平線が微かに輝き出す。太陽はまだ、崖の向こうだ。
真っ青な澄み切った空気の中、俺たちは砂浜でじっと水平線を眺めている。
「太陽と海が解け合うのが永遠なら、海と太陽が離れるのは、なんなんだろうな」
「永遠の逆だろ? 一瞬とか」
「……誕生、じゃない?」
「新生、もいいかな」
「また見つけた」
「何を」
「誕生を」
「海から生まれた新しい太陽のことさ」
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