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『碧と海』 連載小説【32】

   ふふふふふ

 その日の夜は少し風が強く吹いていた。
 『アリゾナ』の敷地内に生えたヤシの木が、ザワザワと胸騒ぎのように響めいている。
 夕食後、シャワーを浴びに行った帰り、俺はしなるヤシの木を眺めながら、外のベンチに座ってコーラを飲んでいた。すると、碧もやって来て、隣に座った。

「百花ちゃんは?」

 碧は片膝を抱えてそこに顎を乗せる。子供っぽい仕草だ。

「シャワー行ってる」

 そ、と興味なさそうに返す。自分から聞いて来たのに。

「百花ちゃんさ。海斗のこと好きだよ」

 飲んでいたコーラを吹きそうになる。まるで天気の話でもするみたいにさらりと言うから。明日は晴れだよ、みたいに。

「はぁ? 何で?」

「さあ。ただ、思っただけ。好きなんでしょ、百花ちゃんのこと」

「……お前こそ、桂木と随分気が合うみたいだな」

 碧の前で可愛く恥じらう桂木を思い出す。

「そうだね。可愛いし、かっこいい。一緒に遊んでて楽しい。お前が好きじゃないんなら、俺もっと仲良くなっちゃおうかな」

 黒碧。

「やめてくれよ、冗談だろ」

 ざわざわと、また気持ちがざわざわとしてくる。

「海斗さ」

「ん?」

 呼ばれて顔を向けると、一瞬、碧の唇が、俺の唇に重なる。
 キスだと分かった時にはもう、碧は立ち上がっていた。

「……何? なんで」

「さぁ」

 碧は、う〜んと伸びをする。

「明日早いし、寝るかな」

と言って俺を見た碧の動作が止まる。
 俺の眉毛あたりをじっと見てる。

「何、何だよ」

「て……? いや、なんでもない。じゃぁ、百花ちゃんによろしく」

 慌てたように視線をそらすと、碧はそそくさと行ってしまった。
 はぁ? なんだよ、ホントに、冗談だろ。……ぶぶ。

 部屋に戻ると、まだ桂木はいない。俺は頭を抱えて考える。
 何であいつが俺にキスを?
 からかっている? 俺の気持ちを知ってからかっている?
 俺が、桂木にも碧にも嫉妬してるのを知って。
 ちょっと待て。
 嫉妬っていうのは、好きだからってことだよな。桂木にも碧にも嫉妬してるってことは、どっちも好きってわけだ。でも、桂木も碧も、俺を恋愛対象とすることはない。桂木は同性愛者で碧はそうでないから。
 いや、待て待て。恋愛? まさか。俺、恋愛とか考えてる? 恋愛なんて無理なのに? そんなの出来るわけがないのに? 俺はソファに寝転がってクッションに顔を埋める。
 バカじゃないの、俺。
 調子に乗るな。調子に乗ると、後が辛いぞ。辛いぞ。

「どうした、佐倉」

 驚いて体を起こす。濡れた髪のまま、タオルを首に巻いた桂木がそばに立っている。

「あ、いや。なんでもない」

 ふうん、と言いながら、桂木は隆さんが作ってくれた簡易ベッドに腰を下ろす。俺が使っているベッドのすぐ隣にセットしてある。

「あ、いいな、コーラ。私も買ってくれば良かった」

「いいよ、飲んで」

と、俺はコーラのペットボトルを桂木に投げ渡す。

「ちょっ、信じらんない。コーラ投げる? 飲めないじゃん」

「もう、減ってるから平気だよ」

と言いながら、俺はソファの上であぐらをかく。

「それよりさ、か、桂木がはっきりさせたい事って、な、何?」

 思わず出た言葉がそれで、俺はびっくりした。やっぱり俺はMなのかもしれない。痛みを欲しがっているのかもしれない。調子に乗りかけていた自分を戒める、痛みが欲しいのかもしれない。

「じゃぁ、早速だけど……」

 桂木はコーラの蓋を少しひねる。しゅううう、炭酸が抜けて行く。

「私、レズじゃないんだ」

 レズじゃないんだ。
 その語尾が炭酸の音と一緒に消えていった。

「え?」

 桂木はごくごくとコーラを流し込むと、あ〜っ、とビールの後のやつみたいな声を出す。

「あ〜、すっきりした」

 本当に、すっきりした顔をしていた。

「そうなの?」

「そうなの」

「何で?」

「何で、とは?」

「だって、レズじゃないんならそう言えばよかったじゃないか。変な噂立てられて、否定すればよかったじゃないか。俺が、俺が聞いた時だって、違うって言えばよかったじゃないか」

「……ごめん」

 桂木は開いていた足を閉じ、膝に手を乗せた。その女子っぽい仕草に、昼間の桂木の姿を思い出す。碧の近くで照れながら笑う桂木を。
 佐倉、と妙にかしこまった口調で桂木が言う。

「ちょっと話していい?」

「話をしに来たんだろ」

 そうだよね、と言って苦笑いをする。


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