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『碧と海』 連載小説【40】

   ■■■

 夢で見るオレンジ色の灯りの正体が分かった。
 「心のクリニック」に戻り、芝辰朗に記憶を戻して欲しいと頼むと、処置室というのか、そう言う部屋に通され、オレンジ色の灯りを見つけた。部屋の真ん中には一人用のリクライニング出来る白いソファがあり、薄暗い部屋で、間接照明のオレンジ色の灯りがぼんやりと漂っていた。
 芝は低い、ゆったりとした声で俺に語りかける。
 俺はゆっくりと目を閉じる。そうなのだ、俺は記憶を取り戻しにわざわざ電車に揺られてきたんじゃないか。外で待っている桂木のことを想う。大丈夫、と思う。一人じゃない。

 ぶぶぶぶ……

 てんとう虫が俺の頭の中で羽を震わせる。
 オレンジ色の灯りが、ゆらゆら揺れる。
 体の中に響いてくる、低く、小さな芝の声。
 その声は俺の周りにあるモヤモヤとした空気の層のような物、例えば薄い薄い紗のような膜をするすると取り払って行く。
 オレンジ色の灯りが、ゆらゆら揺れる。
 てんとう虫が飛んで行く。


 お母さん、安心したわ。
 病院のベッドで母さんが、笑っている。
 素敵な子ね、桂木さんて。
 まあね、とは言わない。照れくさくて。
 本当に安心したわ。本当に……。


 サクラさん、じゃおかしいわよ。だって、海斗もサクラになるのよ。サクラさんは、海斗のお父さんになるの。
 パパ?
 パパか、なんだかこそばゆいな。パパって柄じゃないけど、海斗が呼びたければそれでいいよ。
 お父さんがいい。お父さん。
 はは、ははは、は……。いや、泣いてない。ちょっと、グスッ、目に……。お父さんか、ありがと、海斗。


 ママ、どうしたの? なんで泣いてるの?
 泣いてなんか、ないわよ。嬉しいだけよ。
 嬉しいと悲しくなるの?
 悲しくないわよ。海斗がいるから、ママは幸せなの。


 やめなさい。海斗、やめなさい。

 ……い。……い。……い。


 もういいですよ。いいんです。
 押さえつける物はなくなりました。
 どうですか? 思い出しましたね。
 いいんですよ。
 それでいいんですよ。


 キモチいい……。

 キモチいい、キモチいい、キモチいい。

 あぁ、そうだ。そうなんだ。俺は、そう言いながら、

 あぁ、俺は、してたんだ。マスターベーションを。

 キモチいい、と言いながら。

 そんな俺を見て、母さんは「やめなさい!」とヒステリックに怒鳴ってた。でも、俺は止めなかった。止められなかった。

 ずうっとどこかに消えていたモノが、すうっと体に戻ってきた。

 おかえり。ぶぶぶぶ。

 目の前を赤い小さな影が飛び回る。
 てんとう虫だ。
 あぁ、君はあの時にいたてんとう虫だったんだね。
 そうだよ。

 たまに顔に止まったり、頭の中で飛び回ったりしてた?
 そうだよ。ずっと一緒にいたよ。それより、思い出しなよ。僕たちが会った時の事。

 アパートの裏の畑で見つけたんだ。つやつやと光っていた。捕まえたと思ったら、逃げて行く。そして、あの、あの家の門を超えて飛んで行った。

 そうだよ。そんで、あいつに捕まった。僕たち、あいつに捕まっちゃったんだ。あいつったら僕を小さな固い透明な家に閉じ込めた。君も、あの家に閉じ込められた。

 ケーキがあった。プリンもあった。ゼリーも。アメもガムもチョコも。特別な日にしか食べさせてくれなかった甘いお菓子がたくさんあった。誕生日なの? って聞いたっけ。あの男に。

 あの男。あの時は随分大人に感じたけど、今思い出してみると若い。二十代前半くらいだろうか。ひょろひょろと痩せていて、メガネをかけていて、髪の毛は長くはないけれど、パサパサとあちこちに跳ねていて、面長で無精髭が生えた顎は少し飛び出していた。淡いブルーのシャツをチノパンの中にしっかりと入れているのが、無精な頭と対照的で変な感じだ。俺は父の日に保育園の友達が描いていたパパの似顔絵を思い出した。メガネに髭に、とっちらかった髪型。
 パパなの? と聞くと、そうだよ、とメガネの奥の大きな目が優しそうに笑った。

 危機感がなさ過ぎるね、君は。動物には勘ってヤツがあるはずだよ。君が他の動物ならすぐに死んでるね。

 うるさいな。

 お菓子でべたべたになった君を、あの男はお風呂に入れたよね。ユニットバスしか知らなかった君は湯船を見て、プールみたいって、はしゃいじゃってさ。あの男は君の好きなようにさせた。いつもはママに怒られる事も。例えば、バシャバシャと湯船のお湯を叩いたり、泳ぐ真似をしたり、シャワーの水を出しっぱなしにしたり、そんな事をしてもあの男はニコニコ笑って見ているだけだった。いや、知ってたかい? あの男は変なひとつ目の小箱を君に向けてた。ほら、カメ、みたいな名前の機械だよ。そんで、裸ではしゃぐ君を見ながら、自分のパンツの中に手を入れてたんだよ。君がボディソープを湯船にぶちまけて、泡まみれになっていた時、あの男ははぁはぁ興奮しっぱなしだったんだよ。

 見てたの?

 見てたさ。疲れて寝ちゃった君のおチンチンに、あの男は何をしてたと思う? 君がお菓子にむしゃぶりついてたように、あの男もむしゃぶりついてたんだよ。よくもまぁ、寝ていられたよね。

 パパだと、思ってたんだよ。本当に。

 パパだから、あんな事もしたのか?

 それは……。


 ママには秘密だよ。

 何が?

 男の子はみんなやるんだ。ママには秘密の魔法だよ。

 あの男は自分の固くなったペニスを俺に見せた。驚いた。自分の知っているモノとは全然違ったから。触ってごらん、と言われて、言われた通りに俺はする。握って、動かして、こうすると、すごく気持ちがいいんだ。君もやってごらん? そう言われると、言われた通りに俺はする。どおれ、パパがやってあげよう。ほら、気持ちがいいだろ?

 見てる、赤い小さな光が、ひとつ目小箱がこっちを見てる。ジジジジィィィっと小さな唸り声をあげて見てる。

 ママは?

 ママはお仕事が大変で、今日はパパの家にお泊まりするんだよ。いい子にしてようね。明日、ママが迎えに来るから。今日は、パパと一緒に寝ようね。
 ほら、もうちょっとこっちへおいで。ベッドから落ちちゃうよ。よく眠れるように、マッサージをしてあげるよ。

 パジャマは?

 ママが忘れちゃったみたい。暑いから、パパも裸で寝るよ。でも寝る前に、秘密の魔法をかけてあげる。ママには秘密のね。

 ママは知らないの?

 男の子だけの魔法なんだ。ほら、握ってごらん。そう、そのままこうやって動かして。
 いいよ、とっても上手だよ、はぁ。ねぇ、パパにも触らせて、君の。
 はぁ、いいね、気持ちいいね。気持ちがいいんだよ。君は、すごく可愛いね。いいよ。はぁ、天使みたいだ。君は……。

 ねぇ、パパ。なんで僕のこと、キミって呼ぶの?

 それはね、はぁ、はぁ、名前を知らないからさ。

 全身が固まった。
 動けない。

 怖い……。

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。

 気持ちいいよ。

 怖いよ。

 怖くない、気持ちいいんだよ、す、すごく……。

 温い何かが俺の手や体にかかった。

 その瞬間、止まった。世界が止まった。

 てんとう虫が見てた。透明なお家の中から見てた。

 タールのようなドロドロしたモノが、感覚や感情に覆いかぶさり、固まってはまた覆いかぶさり、また固まって、どんどん分厚く固くなっていく。遠くなっていく。

 君は見てた。あの男が何回も射精するのを。あの男がやる事を、君は見てた。男が君の体を触ったり舐めたりするのを。君は眠れなかった。だから見てた。あの男が、よだれを垂らし、焦点の合わない目で君を見るのを。何回も体を振るわせて叫ぶのを。でも、もう何も感じていなかった。硬い透明なお家の中から。ただじっと見てた。

 ■■いよ……。 

 

「怖いよ……」

「もう大丈夫。大丈夫。怖かったんですね。君は、君はずうっと怖かったんですね」

「え?」

 気がつくと、オレンジ色の灯りの中で、俺は体を強ばらせながら呟いていた。芝が俺の手の上に自分の手を重ねている。俺の目をじっと覗き込んでいる。怖くない。彼の目は怖くない。その目の奥に、安心する何かを感じる。全身に覆いかぶさっていた、熱くて冷たいどろどろとしたモノが流れ落ちていった。

「俺は、怖かったんだ、ずっと。なのに、分からなかった」

「うん」

「俺は、怖くて怖くて仕方ないのに、何が怖いのか、全然分からなかった。怖いことすら分からなかった」

 オレンジ色の灯り。吸い込まれて行く、怖い思い。恐怖。吸い込まれて行ったのは、恐怖だ。俺の中にあった空洞は、今、また恐怖で満たされた。

「怖かった」

 芝は、手にぎゅっと力を込めた。

「大丈夫。今の君なら乗り越えられます」

 突然、芝の目から涙が流れた。芝は慌てて、顔を逸らす。でも、堪えていたものが溢れ出すように、涙は嗚咽になった。

「……すまない。こんな……。でも。よかった……。ずっと……。あぁ、よかった……」

 今の姿が、本当の彼なのだろう。冷たい対応だったのは、意識的に俺と距離を取っていたのだ。でも、気にしていたのだ。カウセリングの途中で消えた俺を。息子かもしれない俺を。ずっと。
 俺は芝の肩にそっと触れる。
 骨張った固い肩。

 なんだ、似てるじゃないか。


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