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『碧と海』 連載小説【28】

   くくくっ

 赤メガネがいなくなった『アリゾノ』のエントランスには、健康的な人たちが健康的なダイビングの話で盛り上がっていた。
 海から戻ってシャワーを浴びたら眠くなって、目が覚めたらすでに夜だった。気怠さを引きづりながら、コーヒーを飲もうとエントランスに来たのだけど、健康的なダイバーたちに席を占領されていた。お昼に積極的に早瀬に声をかけていた女性客たちもいた。カメラを覗き込んで、楽しそうに話している。きっと早瀬と一緒に撮った写真でも見ているのだろう。早瀬の女性客への対応を目の当りにして、俺は改めてあいつを凄いと思った。無愛想で近寄りがたいオーラを出しているのに、話しかければちゃんと目を見て答えるし、あの目でじっと見つめられたら、誰だってきゅんきゅんしてしまうんだ。まぁ俺もやられたクチなんだけどね。
 しかも、早瀬はするりと相手のプライベートゾーンに入っていく。入られた側は嫌そうにするどころか、思いがけない接近を嬉しそうに受け入れてしまう。はたから見ていると、男も女も皆、早瀬にボタンを外されて服を脱がされているようだった。早瀬の前で皆、恥ずかしそうに裸になっていた。
 イメージですが。
 これはもう、魔性というしかないな。とか考えながらコーヒーサーバを操作してる時、海斗くん、と声をかけられる。振り返ると、金髪のキノコが立っていた。あ、正確に言うと、毛先の部分がピンク色になっている。

「明日香さん」

 黄色とピンクのグラデーションになったキノコ頭の明日香さんは、よっ、と言ってにっこり笑った。襟付きの可愛らしいボーダーTシャツを着ている。暑そうなニーハイソックスもボーダーだから、不思議の国のデカいネコみたいだ。

「ねぇねぇ、碧は? 知らない?」

「さぁ。隆さんに聞いてみたら?」

と、俺はダイバーたちの相手をしている隆さんを指差す。明日香さんが、たぁかぁしぃさ〜ん、と呼びかけると、そうだそうだと俺たちの方へやって来た。

「海斗くん、部屋の事、早瀬くんから聞いた? 悪いけど、お友達と相部屋してくれる?」

「はい、でも、いいんですか? ほら、未成年だとどうたらで俺のオヤジに電話したじゃないですか。その辺は……」

「そんなぁ、野暮な事言わないよ。彼女なんでしょ」

と、隆さんは肘で突いてくる。否定も肯定も出来ずに、ハハハと笑っていると「彼女? 海斗くんの彼女来るの?」と明日香さんが食い付く。

「いいなぁ、こっちまでドキドキして来ちゃうなぁ。戻りたいなぁ、高校生に」

 隆さんは腕組みをして女子みたいに体を揺らす。

「つうか、明日香さん、早瀬のこと探してるんでしょ」

「あぁ、そうそう。隆さん、碧どこ? 海?」

「いや、ちょっと前に出かけたよ。それがさぁ、なんかガラの悪い男が来て、早瀬くんの入院先を教えろとか言うの。おっかない声で。わけ分かんない」

「入院先?」

 嫌な予感が湧き上がる。

「何の話? と思ってたら、ちょうど早瀬くんが来て、結局二人で出かけて行っちゃった」

 ちょっと待てよ。今日、何曜日だ?
 ……日曜日。
 日曜日の夜九時!
 プリンスホテルだ。

「もしかして、茶髪でジャラジャラした男?」

「サングラスもね。なんか、嫌な男だったなぁ」

と、隆さんは身震いする。

「えー、何それぇ、私すっぽかされたのぉ」

と、空気を読めない明日香さん。

「お昼に碧に電話したら、来ていいよって言ってたんだよぉ。だから早く仕事終わらせて車飛ばして来たのにぃ。ひどくない?」

「え? 電話したって、早瀬のケータイに?」

「そうだよ」

 海に落ちたケータイ、壊れていなかったのか。

「じゃぁ、電話しなよ。今すぐ」

「え、う、うん」

 明日香さんは真っ黄色のスマホを取り出してダイヤルする。が、早瀬は電源を切っているようだった。

「ねぇ、早瀬くん大丈夫なの?」

 隆さんや明日香さんには言わない方がいい、よな。

「まぁ、その、大丈夫でしょ。知り合いっぽいし」

 そうなの? と訝しがりながらも、隆さんは呼ばれて受付へ行く。

「ねぇ、海斗くんはそのジャラ男知ってるの?」

 ぷんぷん、と頬を膨らませて明日香さんが疑うように俺を見る。
 俺は、大きなため息をつく。ため息と一緒に全身の力が抜けた。もう、あいつらが早瀬に関わることはないと思ってたのに。俺がちょっとどうにかしただけじゃどうにもならなかった。
 悔しい。……悔しい。思わず頭を掻きむしる。

「もお、むかついたから、海斗くん一緒にどっか行かない? ご飯とか」

 明日香さんが目をキラキラさせて言う。なんて、呑気な子。

「今何時?」

「八時過ぎたとこ」

 まだ九時まで時間がある。

「よし、じゃぁ、ホテル行こ」

「え?」



   ぶううん

 明日香さんの車は予想に反してゴツいジムニーだった。でも、鮮やかなオレンジ色なのは、らしい気がする。

「よっしゃ、でっぱつ!」

 車内は気味の悪いぬいぐるみとか、気が滅入りそうな色使いのもので溢れていた。ジムニーの中は想像より密着感があって、なんというか変な意味じゃない変なドキドキでちょっとアレだった。

「でも何でプリンスホテル? 何かあったっけ、あそこ」

「行ってみたかったんだ。温泉入って、レストランで飯食おう」

「温泉なら、もっといい所知ってんのに」

「プリンスホテルがいいんだ。もちろんおごるよ」

「いいよ、高校生に奢られるわけにいかないでしょ」

 ハンドルを握っている明日香さんの方が、サバサバしていて話しやすい。

「ねぇ、海斗くん。一応言っとくけど、アレはなしだかんね」

「アレ?」

「そう。交尾的なヤツ」

「あぁ、はい。了解です」

「あたし、碧に軽い女だと思われたくないから」

「早瀬の事、好きなんですね」

 その時、明日香さんは急にアクセルを吹かし、ハンドルを切ったかと思うと前の車を追い越した。一瞬、対向車に突っ込んで行くのかと思って冷や汗が出た。

「碧のこと、まじで好きなの。好き過ぎて、碧、引いちゃってんだけど。でもね、好きなの」

「もし、早瀬に恋人が出来たら」

「彼女の事いびってやる。姑のようにいびり倒してやる」

「怖えぇ」

 と言いながらハテナマークが浮かぶ。
 確か、早瀬がゲイだって言ったの、明日香さんだよね。今、彼女って言ったよね、ボロだしたよね。

「ねぇ、早瀬はゲイじゃないんでしょ」

「ゲイだよ。だから、あたしと付き合えないんだもん」

「でも」

「ゲイなの、絶対そうなの」

「そっか」

 俺は、ひとり納得した。
 明日香さんはそうやって折り合いをつけてるんだ。どうにも出来ない事に対する、どうする事も出来ない感情を、明日香さんは彼女なりに受け入れようとしているんだ。

「え、まさか、海斗くん狙ってる? 碧の事」

「あー、狙ってたら、どうする?」

 今度は急ブレーキだ。赤信号だ。シートベルトが首に食い込む。停止線の前できっちり止まる。明日香さんは唇を突き出して、う〜んと前を睨んでいる。殺されるかと思った。

「複雑だけど、海斗くんが碧の彼氏なら、いいかな」

「え、いいの?」

「いいよ。女が出来るのは嫌だけど、男ならいいかな。何でか分からないけど。あれ? でも、彼女。彼女来るって言ってたじゃん。海斗くんの」

「ハハ、冗談だよ。俺、ゲイじゃないし」

 と言いつつ、さっき早瀬にキスした事を思い出す。あれは何だったのか、自分でもよく分からない。
 欲情、とは違う。もっと穏やかな衝動。

「早瀬って、誰かとつきあった事ないの?」

「ないない。ないよ〜。だって、だいたい邪魔して来たもん」

「あぁ、早瀬がゲイだって触れ回って?」

「だから、そうなんだってば」

と、明日香さんはアクセルを吹かして無駄な加速をする。が、すぐに赤信号に捕まり、乱暴にブレーキを踏んだ。赤信号を睨みつけながら、明日香さんはぎりぎりとハンドルに爪を立てる。

「ちょっと、大丈夫? 明日香さん」

「一人、いたの。碧が本気になった女」

「え?」

「同じ園で、碧より四歳も上だった。つきあってたかは分からない。でも、碧は本気だった。あの女が東京の大学に行くって決まったら、一緒に行こうとしてたし」

「へぇ、あの早瀬が? 意外だな」

「もう昔のことだし、もう出てったし、だからいいんだけど」

 その人なのかもしれない、と思った。早瀬がキツかった時にずっと手を握ってくれた人。なんだかその人に感謝したい気持ちになった。明日香さんには悪いけど。

「明日香さんは? 彼氏、作んないの?」

「あたし? 碧以外に? ないない」

「確かにさ、早瀬のルックスを超える逸材はあんまいないかもしれないけどさ、あいつより性格いい男はいっぱいいると思うよ」

「あたし、碧じゃなきゃダメなんだ。碧じゃないと……怖いんだ」

 あぁ、そうか。明日香さんも抱えているものがあるんだよな。でも……。

「そんな風に決めつける事ないよ。絶対なんてないんだから。良くも悪くも」


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