『碧と海』 連載小説【4】
ふふっ
誰かが笑っている。
あいつが笑っている。
赤いジャケットの黒メガネの角が生えた男。
見えないけど、いるのがわかる。
甘い匂い、ケーキかクッキーか、甘くてふわふわした匂いの中で、男が笑っている。
「なんだよ、なんなんだよ」
「なんでそんなにいらいらしてるの?」
「はぁ?」
何かがふいに目の前を横切る。小さな影。
ぶぶぶぶぶぶ……と空気が震える。
ぶぶぶぶぶぶ……と体が共鳴する。
俺は目覚める。
ゴゴゴゴォという振動、エアコンの涼しい風。何故か首の後ろだけが熱い。顔を上げると、向かい側にスマートフォンを睨みつけてるスーツ姿の女が見えた。
あぁ、俺は電車に乗っていたんだっけ。
俺は熱くなった首の後ろをさする。陽がもろに照りつけていたのだ。
またか、と俺は思った。
またあの夢を見たのだ。
赤ジャケットの男の夢。
ペットボトルの水を取り出して飲む。ふうっと深く息を吐き出し、目を上げる。向かいに座った女の背後が、キラリと光っていた。
海だ。
鮮やかさに思わず目を細める。
そうだ、もう旅は始まっているのだ。
夏休みが今日から始まったのだ。
横浜から始まった列車の旅は思ったより長かったが、海が見えるとテンションが上がり、長時間の苦も忘れた。
桂木に何度かメールを書こうとしたけど、うまく言葉が見つからなかった。
「セックスなしの恋愛って、そんなにありえない?」ぼんやりしながら桂木の言葉を思い返していた。桂木は恋人と体を重ねたいと思わないのだろうか。ただ、俺とやってると思われたくないだけなのだろうか。だったら、付き合ってるフリなんて止めた方がいいのだろうか。
キラキラ光る水平線をぼんやりと眺める。絶えず流れて行く街や森や田畑の景色を見ながら、俺の記憶は桂木と出会った頃へと遡って行った。
ぶぶぶ
桂木さんってさぁ、ビアンらしいよ。
そんな噂を耳にしたのは、高校一年の夏休み前の頃だ。
「びあん?」
「レズビアン」
「まじでぇぇぇ!」
グラウンドの隅で休憩していた陸上部の女子たちが奇声を上げた。
体育の時間に、百メートル走でダントツの記録を出した桂木は、バレー部なのにも関わらず、地区の陸上競技会の百メートルの選手に抜擢された。いい成績を残したいと思う学校が桂木を説得しないわけがない。だって、桂木は陸上部員の誰よりも早かったんだ。
地区大会で入賞した桂木は、県大会に向けてバレー部と陸上部を掛け持ちすることになった。最初はバレー部を優先していた桂木だったが、バレー部が県大会出場を逃しこともあって、それからは陸上部優先になった。バレー部の先輩たちからも、期待の一年として可愛がられていたから、後ろ髪引かれる思いだったはずだ。それぞれの期待を両肩に背負ってハードだなと思ったけど、本人は淡々とやってのけているように見えた。でも、そうやって頑張っている人間を素直に受け入れられない奴って何処にでも必ずいるんだ。
同じ陸上部でも俺は長距離だったから、桂木とは練習メニューが別で、親しくする機会がなかった。だからなのか、女子部員たちが俺に桂木への不満を漏らす事が多々あった。その時もそうだったんだ。休憩していた俺の周りになぜか女子たちが集まり、桂木のスクープネタを披露し始めた。
「桂木さんがビアン? まじで? チョー本当っぽいんですけど」
「あいつと同じ中学の子が言ってたから間違いないって」
ネタを持ってきたのは、俺のクラスメイトでもある短距離の選手になれなかった水野って子。
「え〜、もしかして、本当は男なんじゃね。だって、あの運動神経、男並みじゃん」
「うわ、まじ、チョーキモい」
「え〜、同じ更衣室使いたくないんですけど」
「ね、佐倉どう思う? 怖くね」
怖いとか、キモいとか、お前たちがよく言えるよな。とはさすがに言わない。
「別に怖いとか、ないでしょ」
「なにそれ〜。ま、男子に害はないからいいけどさぁ」
お前にも害は一切及ばない。とも言わない。その代わり、
「あ、それより水野、あれどうなった。ボウリング。俺、今週平気だけど」
と、話題を変えてみる。女子の陰口はさらりとかわすに限る。
「まじ? じゃあ他の男子にも聞いてみるわ。ウチらはみんなオッケーだよね」
周りの女子が頷きあう。
「じゃぁ、決まったら教えてよ」
桂木の話はうやむやに消え、皆は練習に戻って行く。
「あ、ねぇ、佐倉」
と、水野が思い出したように言う。
「悪いんだけどさ、今日の英Iのノート、後で見せてもらっていい?」
「いいよ。明日小テストだもんな」
「ウチさ、気がついたら寝ててぇ。ノート途中から全然読めないの」
あるある、あはは、って俺は笑顔を作る。
「じゃぁ、部活終わったらマック行く?」
嫌な俺が出てくる。
「いや、いいよ。写メで。悪いし」
水野の期待が伝わってくる。やばい、佐倉って私の事まんざらでもないんじゃない? ふふ、ごめんね、俺は何の気もないんだけど。
「でも、俺にしか分からない字もあるし。ついでにテスト勉強できるし」
何の気もないんだけど、君と一緒がいいんだよ的な優しい笑顔を作ってしまう。
「まじで? いいの?」
「嫌なら誘わねえよ」と恥ずかしいセリフだって言う。笑顔で言えばわざとらしくない。水野は照れたように笑うと、小走りで練習に戻って行った。
もう一度言うけど、水野の事を好きな訳ではない。でも自分に向かせられる想いは向かせたいと思ってしまうのだ。そう、ゲームだ。そのシチュエーションでいかにベストな振る舞いをするか。ターゲットが俺に告ればミッションクリア。俺は「ごめんね」と鮮やかにふってみせる。最後は必ず俺が拒否しなければならない。実は高校に入ってからすでに二回ミッションクリアしている。この調子なら三回目も早めにクリア出来そうだ。ふふふ。なんてほくそ笑みながら、ふとグラウンドをみると、桂木と目が合う。桂木は焦って目をそらす事もなく、冷めた視線をじっと向けている。思わず俺のほうが顔を背ける。ズキッと胸が苦しくなる。心を読まれた? たぶん桂木は気がついている。そして責めている。まともに話をした事もないのに、桂木は俺を見抜いている。そう感じるのだ。
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