『碧と海』 連載小説【29】
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
八時五十五分か、さて、どうしたものか。
俺と明日香さんはプリンスホテルに到着し、とりあえずロビーのソファに座った。
「ねぇ、どうするの? 温泉? 食事?」
あぁ、この人もどうしたものか。碧の事、言うと面倒くさそうだし。居ても立ってもいられなくなって、つい来たのはいいが、プランがあるわけではなかった。もう碧はホテルにいるのだろうか。せめて、部屋の番号が分かれば……。
「明日香さんさ、碧に電話してみない?」
「いいよ。でも、繋がるかなぁ」
明日香さんは無邪気にスマホを取り出す。繋がってくれと心の中で祈る。
「あ、碧?」
繋がった!
「ちょっとぉ、今日さぁ……あっ」
明日香さんからスマホをひったくる。
「碧、今どこ?」
電話の向こうで、早瀬が驚いたのが分かった。
「今、どこだよ」
ガサガサと雑音しか聞こえないが、黙っている早瀬を感じる。
「おい、部屋の番号教えろ」
「……頼む。許すって、言って」
「言わない」
「……そ」
「どこだよ、何番だよ」
「もう、無理だよ……」
「言えよ、助けに行くから」
早瀬の心が、一瞬こちらへ向いたのが分かった。
「今から助けに行くから」
「……五〇……三三。でも、もう遅い」
諦めのような言葉を最後に電話が切れた。
「どうしたの。助けるって? 海斗くん。碧、ここにいるの?」
「明日香さん、ちょっと待ってて。碧を連れ戻してくる」
「どういうこと。ちょ、ちょっと」
困惑する明日香さんを残して、俺はエレベーターに飛び乗った。
五〇三三
そう書かれた部屋をノックする。奥の方から男の声が聞こえる。どうやって碧を連れ出そう。どうやって……隙をつこう。男がドアを開けたら飛び込む。それで、早瀬を確保して、止まっちゃダメだ。早瀬を連れて走ってドアを、ドアを開けておかないと、どうやって……ええと……。
鍵が開く音がし、ドアが開く。と同時に、俺はドアに体当たりするように押し開け、中に飛び込んで行った。
「碧!」
部屋にはベッドが二つ。そのどちらにも碧はいない。
「碧!」
バスルームのドアを開ける。が、いない。
どこへ……。
「なぁ、君、何?」
気がつくと、細い男が隣にぴったりと張り付いていた。肌は浅黒く、長い髪をうしろで束ねている。夏なのに、黒い光沢のある長袖のワイシャツを着て、そうそう細い金のネックレス、キラっキラの高級腕時計。見た事ある、こういうヤツ。映画とかドラマで。そんで、やっぱり目がキレてて、眉毛も薄くて、アブナイ。視線がやばい。
「みどり、みどり、って、君、みどりじゃないの?」
「あぁ、いや、その」
さっきの勇ましい気持ちはどこへやら。完全に男の雰囲気に呑まれてしまった。逃げ道を探そうとさりげなく部屋を見回すと、デスクの上にどこかで見たような器具が色々と並んでいた。どんな風に使うのかは分からないけど、どんな時に使うのかは想像出来る。
男は細い指で俺の腕をすうっとなであげ、顎を掴んだ。
「ふうん。背が高いね。見下ろされるの嫌いだから、座れや」
男は目で圧力をかけてくる。俺は、後ずさりして、ベッドに腰を下ろした。今度は男が俺を見下ろす。
「みどりはかなりの上物って聞いたが、普通のボウズだな、お前は。それで、みどりはどうした」
男の指が、品定めをするように頬を撫で。首を撫でる。
「細いなぁ。腕も……足も」
男の手が、腕から指へ、膝から太ももへ滑るように動く。
「まぁ、いい。みどりがくるまで可愛がってやる」
男の笑顔に体が固まってしまった。あれだ、メデューサに睨まれたように。
男は俺の隣に座った。そして、文字通り舌なめずりしながら、俺のTシャツの裾に手を忍ばせる。男の生暖かい指が腹に触れる。さらに体がこわばる。男の指がジーンズのボタンを外し、チャックを下げる。この先、何をされるのか分かっている。分かっているのに、体が動かない。見たくないのに、目も閉じられない。声も出せない。ただ、頭の中で何かが震えているだけ。ぶぶぶぶ。震えているだけ。
男の骨みたいな指がブリーフの中に入ってきて、もぞもぞと動く。ペニスを弄っている。
反対の手が、俺の首筋を撫でる。
「へぇ、敏感だね」
どうして、どうして俺はこんな時に勃起をするんだろう。
男はブリーフから俺のペニスを引っ張りだす。見たくない。やっとの思いで目を瞑る。
「何だ、君も好きなんだ。こういうの」
男は唇を俺の耳にくっつけて囁く。男の息に、鳥肌がたつ。ペニスを握っている男の手が動く。根元から先の方へ、しごかれる度に、しごかれる度に、度に、度に、度に。
この感覚、この気持ち、初めてじゃない。そう、震えないように、声を出さないように、我慢して、我慢して……。
「気持ちいいんだろ。言えよ。気持ちいいって、言えよ」
気持ち、いい……? 気持ちいい……気持ち……
どうしてだ? 何故だか「気持ちいい」という言葉が頭の中に溢れてくる。
いいわけない。嫌だろ、こんなの。
なのに、催眠をかけるように繰り返し響いてくる。きもちいい、きもちいい、きもちいい……。
嫌だという感情をかき消すように。
キモチイイ。
ふざけるな、違う。
キモチイイ。
突然、ペニスをぬるりとした感触が包み込む。男が口で咥えたのだ。俺は咄嗟に男の髪の毛を掴んで引っ張り上げる。俺は、泣きそうだったに違いない。男は俺のそんな顔を見ると、気持ち悪いくらいに顔を歪めた。
「君、いいね。可愛いじゃねぇか」
そう言って、男は俺の唇に喰らいつく。むりやりこじ開け、舌を絡めてくる。ぬらぬらとした芋虫のようなものが口の中で暴れ回る。
俺はもう、我慢が出来なかった。男の肩を掴んで引き離そうともがき、男を押し倒す形でそのまま……。
そのまま吐いた。男の口の中に、吐いた。男の顔の上に吐いた。唐突に、ものすごい勢いで吐いた。
「ぎゃあああ」
男はベッドから転がり落ち、俺が吐いたものを吐き、一緒に自分の胃の中のものも吐いている。
「てめぇ、ゔおえ、何しやが、ゔおえっ」
そのとき、あぁ、こんなタイミングで、良くも悪くもいいタイミングで部屋のドアが開く。
「海斗!」
碧が部屋に飛び込んで来る。それ、俺がやりたかったのに……。碧は繰り広げられている状況を見て目を丸くする。でも、咄嗟に理解したのか、俺の腕を掴んで引きずり出そうとする。男はそれに気がつくと、よろよろと立ち上がった。
「待て、こらぁ、げほっ」
「海斗、走れ」
俺は碧に引っ張られ、ジーンズを押さえながら走った。
よく転がり落ちなかったと思うほど、ものすごい早さで非常階段を駆け下り、ロビーで待っていた明日香さんを驚かせ、急いでオレンジのジムニーに乗り込み、プリンスホテルを後にした。ホテルから充分離れた公園で俺は顔や手を洗った。勢い良く吐いた割には、自分はあまり汚れていなかった。でも、洗っても洗っても口の中の嫌な匂いは取れなかった。そして、出来る事ならペニスを洗いたかった。
明日香さんは空気を読んだのか、運転中ずっと黙っていた。碧も何も話そうとしなかった。口の中の匂いは諦めて車まで戻ると、碧と明日香さんは黙って暗い駐車場に座り込んでいた。まるで誰かが死んだような顔をしていた。俺は死んでないぞ。
「ひでぇよな。俺が、碧を連れ出すつもりだったのに」
ははっと笑って座ると、碧が気まずそうに口を開く。
「海斗と電話で話した時、まだホテルの前のビーチに居たんだ。なかなか部屋に行けなくてさ。まさか、お前たちがホテルにいるとは思わないじゃん」
「説明がヘタなんだよ」
「つうか、部屋の番号教えろって言うから教えたんじゃん」
「もう遅い、とか言うから。部屋にいるもんだと思うだろ」
「別に、頼んでないし」
「はぁ?」
「臭いし、汚いし」
「お前のせいだろ」
「だから頼んでないし」
「なんだと」
「なんだよ」
「ちょぉーっと!」
明日香さんが俺と碧の間に入ってくる。
「あのさ、何なの? って一番思ってるのあたしじゃない? だって、何やってんの? あんたたち。あ、あたしの事ずっと放ったらかしじゃん! ご飯は? 温泉は? もう、どうすんのよぉぉ」
俺と碧は顔を見合わせる。途端に、笑いが込み上げてくる。一度笑い出すと止まらない。俺に釣られるように碧も笑い出す。
俺たちが笑い続けるので、ぷんぷんしていた明日香さんも、次第に呆れ顔になった。通りかかる人に迷惑な顔をされながら、しばらく駐車場で笑い転げていた。笑っていないと、底の見えない暗闇に引きずり込まれそうになってしまうから。
帰る途中に寄ったガソリンスタンドで俺はコーラを買って飲み干した。喉が乾いていたし、強い刺激で口の中の嫌な感じを紛らわせたかった。
「海斗、その、大丈夫?」
車の中でずっと黙っていた碧が聞いてきた。
明日香さんは一人でジムニーにガソリンを注ぎ込んでいる。
店内は無人で青白い明かりが部屋の中を無機質に見せている。
「俺さ、早瀬に間違ったこと言った」
「え?」
「嫌ならしなきゃいいじゃん、って。無理だ。嫌でも俺、全然動けなかった。頭の中もおかしなことになってて、ちゃんと考えられなかった」
早瀬は黙ってうつむいている。
「あいつが、きもちいいだろ、って言った時に、もう何もかもが分からなくなって。嫌なのに勃起してるし、もしかして嫌じゃないのかもとか思ったり」
「それは、違う」
「ありがとう。うん。とにかく、嫌で。嫌だったんだ」
「怖かったよな」
「え?」
怖かった……?
その時、碧のケータイが鳴った。
碧の母親からだった。碧は何回目かのコールで電話に出ると、黙って話を聞いていた。たぶん、ばっくれて帰って来た事を言われているに違いない。しばらくして碧は絞り出したような小さな声で言った。
「お母さん……。もう、俺のこと忘れて。
お母さんがいると、俺、幸せになれないから。だから……バイバイ」
碧は通話を切ると、電源もオフにした。
「……碧」
「言ってやった」
ぶぶぶ きもちいいよ 魔法だもん
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