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『碧と海』 連載小説【9】

 母の四十九日を終えると、俺は芝辰朗に会ってもいいような気になった。母が死んだという事を、ただ報告するだけだ。一言、母が死んだと。

 それは、てんとう虫の呪いのようなものだ。

 ずっと瞼に張り付いて、払っても払ってもそいつは離れない。離れたと思っても、それは忘れているだけで、気がつくとやはりそいつは張り付いている。

 ほら、今も頭の中でぶぶぶと羽ばたいてる。飛び立とうともがいてる。でも、どんなにもがこうと、そこから空には飛んでゆけない。
 俺はこれ以上だらだらとその存在に心を乱されたくなかった。
 だから来たんだ。わざわざ。
 電車に何時間も乗って。高校最後の夏休みに、わざわざ。
 受験勉強もそっちのけで、わざわざ。
 わざわざだよ、もちろん。
 わざわざ、ね。

 真っ白なクリニックの待合室で、俺は夢に出てくる赤いジャケットの男を思い浮かべた。奥の扉を開けたら、ツノがびょーんと飛び出たふざけた恰好の男がいるのだろうか。まさか。でも、ツノがなくて、赤ジャケットもなくて、果たして同じ人物だと分かるだろうか。
 女の人が戻って来て、どうぞ、と奥の部屋に連れて行ってくれた。
 白い扉を開ける。中にいたのは、桜色のワイシャツを着て生成りのチノパンを履いた爽やかな中年男性だった。メガネもかけてないし、ツノも生えてない。ついでに白衣も着ていない。清潔感のある短髪に、髭のないあご。似てるのだろうか、俺とこの人は。俺はドキドキしながら部屋に入った。

「どうぞ、お座り下さい」

 勧められたふかふかな椅子に座る。

「あの、し、芝辰朗さんですか?」

 緊張で声が上ずった。でも、彼はゆるりと微笑んだ。ザ・ビジネススマイル。

「そうですよ。芝辰朗です。君は、夏川京子さんの息子さんと伺いましたが」

 さすがだ。落ち着いている。

「そうです。佐倉海斗です。あの、初めまして、でいいんでしょうか」

「どうしてです?」

 彼は微笑みを崩さずに聞き返した。

「いや、あの、以前会った事があるかなと」

「何故そう思うんです?」

「そんな気がしただけです」

「そうですか。ところで、お母さんはお元気ですか?」

「……先月、亡くなりました」

「えっ……」

 芝辰朗の表情が明らかに変わった。営業用の笑顔がどこかに行ってしまった。

「あの、スキルス性の胃ガンで」

「あぁ、それか。それは……。まだ若かったのに。そうか……。」

 芝辰朗は唇を噛んで、遠くを見た。母の死を悲しんでいる、というよりも、その病気に対するどうしようもない憤り感じているような表情だった。

「一応、報告した方がいいと思って。それで、来ました」

「そうだったんですか。ありがとう」

 そして、少し間を置いてから、芝辰朗は続けた。

「それで、ここに来たということは……。君は、私のことをどれくらい知っているのでしょうか」

「実は、母が口走ったんです。意識が朦朧としている時に。俺を見て「辰朗さん」って。俺をあなただと思ったんでしょうね。必死な感じで「辰朗さん、海斗を助けて。海斗はあなたの子供なのよ」って」

 芝は頷きながらじっと聞いている。

「それまで、俺は本当の父親について聞かされていませんでした。生きているとも死んでいるとも。でも、母の遺品整理をしている時に、あなたの名刺が出て来た」

「それで、君は私が父親だと思って尋ねて来たんですね」

「はい」

 芝は近くにあったボールペンを手に取って手の中でくるくる回した。

「あなたは俺の父親なんですか」

 ボールペンが止まり、シャツのポケットに収まった。

「それは、私にはわかりません」

「え?」

「君は、高校生?」

「はい、三年です」

「なら、正直に言いましょう。私と夏川さんは一時期、不倫の関係にありました」

 別にショックではない。想定内だ。でも、多少の衝撃はあった。

「私は結婚していたのだけれど、妻と上手くいってない時期があって。そんな時に、夏川さんと関係を持ってしまったんです。ただ、彼女もこちらの事情を分かっていて、なんというか、割り切った付き合いだったんです。だから、彼女がもう会わない、と言った時も特に引き止めませんでした。その後、彼女とは会ってもいないし、連絡もとっていない。ただ、彼女が一人で子どもを産んだことは、風の便りで知りました。しかし、その子どもの父親が誰なのかは私にはわかりません」

 割り切った関係、と芝は言った。しかも、さらりと。割り切った関係って、つまりはセフレってことじゃないか。母さんがそんな、割り切ったナニをしていたなんて、正直想像出来ない。いや、したくない。

「で、でも、関係があったことは確かですよね」

「私たちはしっかりと避妊をしてました。だから、父親が私である可能性は少ないと思いますよ」

 なにか、つまり、母さんは他の男とも関係を持っていたと言いたいのか? 割り切った関係の中に、愛はなかったのか。この男は母さんを愛したんじゃないのか。

「母が言った、海斗を助けて、というのは? 母はあなたに何か助けを求めたのでは」

「さぁ。私にはわかりません。君と会ったのも今日が初めてです。その時の京子さんの状態を考えると、まぁ、意識が混乱していたのでしょうね」

 すべてが……。

「そうですか」

 すべてが、なんの意味もなかった?

「でも、まぁ、君が望むのなら、DNA鑑定してみてもいいですが。やってみますか」

 芝は足を組んで背もたれに寄りかかった。その言葉は、態度は、自分が父親ではないという自信に満ちているように見えた。

「いえ、そこまでは、別に」

「君の苗字が佐倉ということは、京子さんは結婚されたのですね」

「そうです。俺が九才の時に母は今の父親と結婚しました。それまでは、母と二人でした」

「そうですか。……。その、お母さんと二人で暮らしていた時の事は、覚えていますか?」

 おや、と思った。

「覚えてるか、ってどういう意味ですか」

「おかしなことを質問しましたか?」

「だって、覚えているかなんて、どうして」

 芝はまたボールペンを回す。回しながら考えも巡らせているように見える。慎重になっているように見える。

「別に深い意味はないですよ。ただ、こちらに住んでいた頃のことを覚えているかと聞いただけです。そんなに変な質問でしたかね」

「いえ、変とかじゃなくて。あの、俺、覚えていないんです。こっちに住んでいた六歳から前のことは、全然覚えていないんです。だから、覚えているか、なんて。俺が覚えていないことを知ってるのかと思った」

 芝はゆっくりと頷いた。

「そう、でしたか。覚えていないんですね、こちらに住んでいた時のことは」

「そうです。母は、こっちに住んでいた時の話をほとんどしてくれませんでしたし」

「なるほど」

 芝の手の中のボールペンはクルクル回されるだけで、一向に本来の仕事をさせてもらえていない。回転が止まったと思ったら、次は頭を掻かされる。

「では、覚えていないことで、なにか困っていることとか、問題はありますか?」

「問題、ですか? あると言えば、あります」

 芝の目が、一瞬曇ったように見えたのは、気のせいか。

「どんな」

「母は、俺は本当の父親とは会ったことがない、と言ってました。でも、覚えていない時期に、本当は会っていたのではないかと思うんです」

「どうして、会ったと思うんですか?」

「夢を見るからです。男の人と部屋に二人でいて、「パパなの?」って聞くと相手は「そうだよ」って答えるんです。その夢を何度も繰り返して見るから、もしかしたら夢じゃなくて、忘れている小さい頃の記憶なのかと思って。あの、本当にあなたじゃないんですか」

「残念ながら」

 辰朗は顎をさすると、またボールペンを手に取った。

「お母さんにはその夢のことを話しましたか?」

「聞いてみた事はあるけど、ただの夢だってあしらわれました。俺が父親と会った事はないって」

「その夢については、君はどう感じますか」

「え、どうって」

 芝は軽く咳払いをしてからこちらに向き直って話し始める。

「夢については、潜在意識の現れだとか様々な解釈がありますが、夢の分析は私の仕事ではありません。むしろ、その夢に対して見た人がどう感じているのか、そちらを大事にした方がいいと僕は考えています」

「はい」

「例えば、その夢に、君は幸福を感じますか、不安を感じますか」

 俺は夢を思い出す。

「幸福、のような気がします。パパだという男は変な恰好をしているけれど、部屋はお菓子の甘い匂いで包まれてて、俺はそのお菓子を食べ放題なんです」

「そうですか。夢の中のあなたも? 幸せだと思っている?」

「……いや、ホントはよく分からない。俺は、何だろ、何か、分からないんです」

「分からない。なるほど。では、その夢は君に苦痛を与えている?」

「苦痛? それは……分からない。そういう風に考えた事がなかった」

「夢を見ている君は、どんなことを感じていますか。なんでもいいです」

「感じる、というか。ただ目の前の男がパパなのかどうか気になっていて。そうしているうちに、オレンジ色の灯りが、俺の、俺の中にある何かをするすると吸い上げて行くんです。それで俺は……」

「……どうしました」

 この夢を人に語ったのは初めてで、言葉にしていくうちに俺は。俺は、初めて気がつく。

「俺の体の中に空洞が出来るんです。何かを吸い上げられて、俺は何かを失くすんです」

「失くす?」

 あぁ、そう、そうなんだ。それがないから俺は欠陥品なんだ。でも。

「それが何だか分からない」


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