『碧と海』 連載小説【25】
ふふふ
「あの、ババァ。うるせーっつうんだよ。自意識過剰なんだよ。ブスがっ」
と、確かにそう言っている。
出かけようとバス停に向かう途中、デカい無駄にお洒落なリュックを背負って歩く赤メガネを見つけた。ヤツもバス停に向かっているのだろうか。そっと近づいてみると、スマホをいじりながらブツブツとそう言っていた。
「ブス、ブス、ブス、ブス、ブスブスブスブスブース」
こんな大きな声で独り言を言えるなんてすごいな、と関心してしまう。特大のブスを言い切った後は、気が済んだのか黙って歩きながらスマホに夢中になっている。そのうち転ぶんじゃないかと心配になって少し距離を取る。と、今度は突然立ち止まり。
「イエス! ぃやった! イエスっイエス、イエ〜ス」
とガッツポーズ。なんだか、図体のデカい小学生に見えてくる。
どうした、勇者の剣でもゲットしたのか?
「やった、まじか、まじか。やばい、やばい、やばい、ゲットしちゃったよ」
あぁ、ホントに勇者の剣だったのか。それとも盾か、アイドルのレアカードか。
「ほ、ほ、ほほ、放課後みどりくん、ゲットぉ、ふぉー」
みどりくん?
俺は赤メガネに近づいて、背後からヤツのスマホを取り上げた。
「な、なにすんだよ。オイ」
俺は両手を高く上げ、赤メガネから届かない場所でスマホの画面を見る。誰かからのメッセージ画面。
「約束のお礼だお。『放課後みどりくん』だお」その下にURLが貼ってある。
昨日の碧の話を思い出し、嫌な予感がした。
碧は、撮影されてた、と言ってなかったか。
子どもの頃。
……児童ポルノ。
「何、これ」
取り返そうとする赤メガネを押しとどめながら聞く。
「くそ、この、クソやろう、返せ」
答える気はないようだ。
俺はスマホを持って走り出した。赤メガネも慌てて追いかけてくる。
軽く五分くらい走ると、もう赤メガネは遥か遠くに見えなくなってしまった。
俺はさびれた青果直売店の駐車場で立ち止まった。スマホの画面を見ると、動画が再生されていた。走ってる間にURLをタッチしていたみたいだ。画面にはまだあどけない、けれど美しい少年の顔のアップが映っている。音声がオフで分からないけど、何かを話している。桜色の唇が笑ったり何かの形を作っている。透き通った緑色の瞳が、楽しそうに大きくなったり細められたり。
何だこれ、まるで天使みたいな可愛さじゃないか。
唐突に強引に、ページを破ったように映像が切り替わる。
引きの画で、ベッドの上に裸の少年が座っていて、向かいに裸の男がいる。マズい、見たらマズい、と思う。雑な編集でどんどん映像が切り替わる。急いで画面をタッチする。見たくない。こんなもの見たくない。頭の中でてんとう虫が羽を震わせる。ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。
「おま、え、はぁ、か、はぁ、返せ、はぁ」
ゼエゼエ言いながら赤メガネが追いついた。返せと言いながら、膝から崩れ落ちる。
「……これは何?」
声が震えていた。手も震えていた。
赤メガネは腹を押さえながら、ゼエゼエ言うだけ。
「早く説明しないと、あそこにある交番に持ってくから」
五十メートル位先の交差点にある交番を指差した。赤メガネは首を横に振る。
「するから……ちょ……まって」
「はい、サン、ニィ、イチ……」
「と、トレードで……」
「トレード?」
「い、今の、みどりくんの、動画と……ぜぇ。昔の、ぜぇ、みどりくんの、動画を……」
「昔の? それで、あいつの事盗撮してたのか……」
「か、返して……」
「……昔の動画って、あれだよな、持ってるだけで逮捕されちゃう類いのやつ」
「返せ……」
「児童ポルノってやつ」
思わず大きな声になる。
赤メガネが力を振り絞って掴み掛かってくる。が、さらりとよける。赤メガネは地面に倒れ込んだ。
「あいつの昔の動画って、たくさん流出してるのか?」
「あぁ、まぁ、普通の、ぜぇ、やつは」
「普通って、なんだよ」
「ふ、普通に、ぜぇ、売ってるやつだ、ぅゴホッゴホッ」
「売ってるって、児童ポルノが?」
「ポルノじゃ、ない。ジュ、ジュニアアイドルのイメージDVDだ。アマゾンでも売ってる」
赤メガネはズレたメガネを直しながら、どこか誇らしげに言う。
「み、みどりくんは、ジュニアアイドル界に旋風を巻き起こした、まさに神! 奇跡の少年……ゴホッゴホッ」
「で、この動画は? 普通のやつなの」
「ば、バカ。超貴重に決まって、ゴホッ。あのね、みどりくんが奇跡なのはさ、裏が本業だったからなんだよ。むしろ表なんかに出なきゃよかったんだ。裏みどりくん、マジで神だから。だって、分かるだろ? あんな、天使みたいな子が、天使みたいな笑顔でさ……クククっチョー可愛いんだぜぇ」
なんだこいつ、笑ってやがる。神とか天使とか奇跡とかいいながら。鼻水垂らしながら、笑いながら……。
こんなヤツ、死ねばいい。
本当は、深くて流れが速い川があればよかったんだけど、俺は、駐車場の隅にある簡易便所の扉を開けた。理想的な匂いと、暗く深い穴。俺は迷わずそのブラックホールへ、スマホを投げ入れた。
「キャぁぁぁぁぁぁー」
赤メガネの悲鳴を背に、俺は走り出した。
ぶぶぶぶ……。頭の中でしきりにてんとう虫が羽ばたいていた。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
気がつくと、あの崖の上にいた。
早瀬が飛び込んだ海が、足下に広がっている。
頭の中は、ぶぶぶという音がぎゅうぎゅうに詰まっている。
波の音がくぐもって聞こえる。
風が、体を揺らす。
さっきから、てんとう虫が、頬に張り付いている。拭っても、拭っても、張り付いている。羽音は頭の中で響いている。くそっ。
あんなに、あんなに天使みたいな可愛い子どもを、なんで。
なんで天使を性の奴隷にした。
子どもを……子どもなのに。
とてつもなく嫌な気分だ。
こういう気分に、なった事がある。知っている。心が震えている。
なのに、分からない。なんでなのか。それがどういうことなのか。どういう種類の気持ちなのか……。
俺は、分からない。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
水色のアパート、カーサ鈴木の一番端の部屋の呼び鈴を押した。
衝動? いや、冷静だ。冷静な衝動。
静かな昼下がりに、ピンポーンという電子音が響く。しばらくして、はい、という力ない女の声がドアの向こうから聞こえた。早瀬の母親の声。碧の友達だ、と言うと、何の用か聞いてくる。
「あいつに電話繋がらないでしょ」
すると、すっとドアが開き、早瀬の母親が顔を出す。ぼさぼさの髪の毛で顔が半分隠れている。
「あんた、碧に頼まれて来たの?」
「違います」
「あのさ、碧に言ってくれる。すぐに電話しろって、あたしに」
「あいつのケータイ、壊れてるから」
「じゃあ、早く新しいの買えって言って」
「会いに行けばいいじゃないですか?」
「はぁ?」
「やましい事があるから会えない?」
彼女は、なんだこらっ、みたいな感じでガンを飛ばして来た。でも、そんなもの全然効かない。
「もうやめてくれますか。碧を売るの」
「なんだおまえ。なに言ってんの」
「日曜の夜九時、プリンスホテルで何をさせようって言うんですか」
「んなの、てめぇは関係ねぇだろ。帰れ」
母親はドアを閉めようとするが、俺はドアの間に無理矢理体を滑り込ませる。
「何なら、通報しましょうか」
女は髪の毛の間から俺を睨みつける。
「何のことだか分からなねぇな」
「まぁ、どのみち無理なんだけどね。早瀬はホテルには行かない」
「碧がそう言ってんのか」
「行けないんだよ。早瀬のやつ、崖から海に落ちて病院にいる。死のうとして海に身投げしたんだよ。俺は、それを見た」
半分嘘で半分本当だ。
「はぁ? なんで。……碧は? 無事なのかよ」
「無事なわけ無いでしょ。死んではないけど」
「そんな」
「母親から頼まれたら断れない、って早瀬は言ってた。だから死ぬしか無いって」
「あいつは自分でやるって言ってんだよ。嫌ならそう言えばいいだろうが」
「それが出来ないから死のうとしたんだよ」
女の顔が青くなった。
「どんな気持ちだよ? 大事な商品が使い物にならなくて焦ってんの?」
女はキッと俺を睨んだ。
「反論してみろよ」
「あ、あの子は私が産んだんだ。どう使ったってお前には関係ねぇだろ」
「本当に? こんなふうにする為に産んだの?」
「うるせぇ、あたしはさぁ、あいつを傷つけたことなんてねぇんだよ。無理矢理させてる訳じゃねぇ。あいつが喜んでやるんだよ」
殴った、かと思った。無意識に固く握った拳を振り上げていた。女は反射的に身を縮めていた。俺は拳を壁に叩き付けた。女の方が震えていた。
この女は、可哀想な人だ、と心の中の声が言う。
この女は、可哀想な人だ。
この女は、可哀想な人だ。カワイソウナヒトダ。
俺はそっと手を伸ばし、女のボサボサの髪を顔からどけた。女は顔を背ける。額や瞼が青く腫れている。殴られた跡だ。一目瞭然。
カワイソウナヒトダ。
「昔はもっと綺麗だった、って早瀬が言ってた」
女は俺に背を向け、両手で自分の体を抱きしめるようにした。
「あなた、きっと、一人では生きて行けないんだね」
女は身を固くしていた。
「早瀬があなたを責めないなら、俺もあなたを責めない。その代わり、もう早瀬に会わないで。そんで、あの男とも別れて」
俺は女からそっと離れた。
「早瀬は今、入院してる。命は助かったけど、脊髄をやられて、もう手も足も動かせない」
「う、うそ」
「病院は教えられないよ。ま、会ってどうするのって感じだけど」
あぁ、と女は項垂れる。
「男にまた殴られる? なら、逃げちゃいなよ」
「に、逃げる?」
「そう」
俺は小さくて細い女の肩に、なるべく優しく触れる。ビクリと強ばるが、振り払われなかった。早瀬が握ってくれた温かさが伝わるといいなと思った。
「大丈夫。俺が許す」
女は驚いたように俺を見上げた。
その顔は、やっぱり早瀬に似ていた。
早瀬にそうするつもりで微笑もうと思ったけど、それは歪んでいたかもしれない。
女は俺の腕を振り払って、その場に崩れ落ちた。
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