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『碧と海』 連載小説【15】

 

  ぶぶぶ らぶらぶ

 高校二年のクリスマスの夜。
 俺と桂木はコーヒーショップで 小さなクリスマスツリーを眺めていた。ツリーにぶら下がっている白いリボンのオーナメントに、ハートマークと男女の名前が悪戯書きされていた。

「らぶらぶ、だな」

 ロイヤルミルクティーが入ったカップを両手で包み込みながら、桂木は鼻で笑うように言った。

「タツキとアイナが?」

「誰だよそれ」

 オーナメントの落書きを差す。
 桂木は肩をすくめてミルクティーを啜る。

「クリスマスにさ、約束もしてないのに偶然会うなんてさ。私たちどれだけらぶらぶなの、って感じ。ま、昨日じゃなくて良かったけど。イブの日だったら恥ずかしくて死ぬわ」

 そう、別に恋人同士じゃない俺たちはクリスマスだからって会う必要もなく、冬休みに入ってからもろくに連絡を取っていなかった。なのに、出かけた帰り、なんとなく立ち寄った本屋で桂木とばったり会ったのだ。
 ガラス越しの世界を歩く人々は、もうイベントのピークを終えてしまったクリスマスを、消化試合のようにダラダラとはしゃいでいるように見えた。

「昨日の夜は、日本中がらぶらぶだったんだな」

 桂木は言いながらため息をつく。

「愛の日ですから」

「聖なる、ね」

 珍しい、と思った。桂木がそういう、いわゆる下世話な事を言うなんて。

「羨ましいの?」

「まさか」

「ねぇ、桂木って、その、経験あるの?」

 聞きたくてもなんとなく聞き辛かった事を今なら聞ける気がした。

「は?」

「女子と付き合った経験」

 桂木は目をぱちくりさせた。

「ないよ」

 氷の眼差しで非難されるのを覚悟していたのに、ケロッと返される。今なら聞ける。

「あと、ずっと聞きたかったんだけど、桂木はさ、その、LGBTのL、という解釈でいいわけ? それともT? トランスジェンダーの方?」

「おおっと。すげぇ、らぶらぶな話題だな」

「まぁね。クリスマスだし」

 桂木は苦笑いをする。笑ってる。すげぇ。

「私は自分を男だと思った事はないし、なりたいと思ってない。つまりL、だな」

「だよね、だと思った」

「佐倉はどうなの」

「俺? 俺もべつに、男である事にはなんの疑問もないし不満もない」

「私の噂でもそうだったけどさ、同性愛とトランスジェンダーが混同してる人多いよね。ゲイ=オネエのイメージが強すぎて。異性愛なら理解しやすいから、男が好きなら心が女なんだろって、そう思っちゃうのかもね。トランスジェンダーで同性愛とか、もっと色々な形もあるのに」

「うん。たぶん、そうじゃない人たちは知らないってのもあるけど、そもそも考えないんだと思うよ。自分に関係ないことは考えない」

「まぁ、そういうことなんだろうね。きっと知りたくもないんだよ。でも、それが一番厄介で一番重い罪だと思う。知らないって罪だよ」

 最後はまるで自分に言い聞かせるように、桂木は淡々と話した。

「そうかもね」

 俺はまだ熱いコーヒーを一口含んだ。隣の大学生くらいの男は、ヘッドフォンをしながら少女マンガを読んでいた。テーブルの上に続きの巻が十冊ほど置いてあった。俺たちの話は聞こえてないのか、聞こえないフリをして聞いてるのか。

「タイプは?」

「へ?」

「佐倉の好きな男のタイプってどんなの」

「あぁ、タイプ。タイプね。どうだろ」

「ガチムチ系? 可愛い系? イケメン系?」

「えぇ、そうだな。あーんと、快活で、聡明でシャイな感じ」

「快活で、聡明で、シャイ?」

 分からないかな。目の前の人の事を言ったんだよ。当の本人は快活、聡明、と繰り返しながら首を傾げている。

「例えば? 芸能人で言うと?」

 う〜ん、今度は俺が首を傾げる。

「雰囲気で言ったら、『パラサイト』に出てたジョシュ・ハートネット。ロバート・ロドリゲスの映画だよ」

 俺はつい最近テレビで見た映画を口にした。それを見た時、ジョシュの役をかっこいいと思ったことは嘘じゃない。かっこつけなくても寝癖がついててもかっこいいし、チャーミングなんだ。

「『パラサイト』は観てないけどジョシュは知ってる。『ヴァージンスーサイズ』に出てた。あの映画大好き。キルスティン・ダンストがめっちゃ可愛い。ああいう感じの女の子好きだな」

 桂木が何かを可愛いというのはとても珍しい。

「タイプ?」

「まぁ、そうかもね。危うい雰囲気とか。無垢な感じとか」

「無垢か」

 ふと、中学の時にキスした青山さんを思い出した。黒い長い髪やあどけない笑顔やふんわりとした唇。桂木があのサラサラの髪をすくい取るところを想像する。恥ずかしそうにうつむく青山さんの頬を桂木の指がなぞる。そして、その指で彼女の顎をそっと持ち上げる。二人の顔が近づき、唇が触れ合う。抱き合う。歌う。
 これじゃ宝塚だ。

「うまく想像できない」

「何が?」

「なんでもない。『ヴァージンスーサイズ』ね。今度観てみる」

「男子にはつまんないかもよ」

「つうか、映画好きなの? 桂木」

「まぁ、親が映画オタクってやつで。その影響? 佐倉は良く見るの? 映画」

「BSの映画チャンネルは割と見る」

「へぇ、じゃぁ今度……」

「……今度?」

「いや、なんでもない」

 そう言って、桂木はマグカップに口をつける。唇がいつもよりキラキラしている気がした。そう言えば、爪も色はついていないけどツヤツヤしている。ふと、そのキラキラとツヤツヤに触れたいと思った。そっと手を伸ばすと、気付いた桂木が驚いて手を引っ込める。

「な、何」

「あ、爪がつやつやだなと思って」

 爪? と言って桂木は引っ込めた手を出して見せてくれる。

「あぁ、磨いたから」

「へぇ、触っていい?」

「いいけど」

 俺は細くて長いバレー部のエースの指を握った。人差し指と中指と薬指。しっとりとしていて温かかった。短く切りそろえられた小さい爪は、ピンク色でつるつるして健康そうだった。そして、その三本の指、たった三本の指の温かさに触れただけで、俺の鼓動は気持ちよく高鳴り始めるのだ。そして思ってしまうのだ。離したくない、って。

「佐倉?」

 手を離そうと思うのだけど、真冬の布団のように離れる事が出来ない。

 もう少し。あと、もう少しだけ。

 恋人のフリをして。

 桂木と付き合うフリをするようになってから、びっくりするほどすんなり距離が縮まった。まるでずっと前から友達だったかのようだ。気が合うのだ。だから本来のカムフラージュという目的も忘れて、俺は新しい友達との関係に満足していた。でも、改めて彼女は同性愛者なのだと思い知ったその夜は、なんだか心の奥がモヤモヤして切なかった。
 桂木と別れた後、俺はレンタルビデオショップで『ヴァージンスーサイズ』を借りて帰った。美しい五人姉妹が次々と自殺していく話だった。キルスティン・ダンストは確かに美しかった。透明感があって儚い。桂木は「めっちゃ可愛い」って言ったな。ジョシュ・ハートネットはプレイボーイ役で、キルスティンを口説いていた。でもする事を済ませるとキルスティンを捨ててしまう。そのそっけなさ、鮮やかさに痺れてしまった。そこでふと思った。もし、桂木が俺を好きになったら、俺は華麗に捨てることが出来るのか。いやいや、それはない。だって、俺を好きにならないから桂木を選んだんだ。だから、桂木がいいんだ。なのに。

 何故切ない。

 その二日後。正月を目前にして母親に余命宣告が下った。
 冬休みの残りは、ひとり部屋に引きこもった。入院している母親に会いたくなかった。現実を目の当りにしたくなかった。レンタルビデオショップから返却の催促の電話がかかって来て、ようやく外に出た。『ヴァージンスーサイズ』を観たのが何ヶ月も前のように感じた。映画の内容と共に蘇って来たのが、桂木の指の温かみだった。柔らかい、しっとりとした感触を思い出す。離したくないと思った、あの心地よさを思い出す。俺は桂木の指の温かみを繰り返し繰り返し思い出しながら、ようやく病院の母に会いに行ったのだった。

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