『碧と海』 連載小説【6】
高校生活最初の夏休みを迎えようとしていたある日、クラスが違う綾辻という女の子が、部活を終えた俺を待ち構えていた。一年は最後まで片付けをしないといけないからちょっと遅い時間だったんだけど、部室の裏のグラウンドの隅の用具入れの陰、つまり誰にも見られない所に引っ張り込まれて、「つきあってほしい」と告られた。
よし、ミッションクリア。心の中で小さくガッツポーズ。しかもこの綾辻って子、色んな意味で高スコアだった。俺の最低なリアル恋愛ゲームも、これで三人クリア、なかなかいい感じだ。さて俺は前の二人にしたように「ごめんね」と断る。断るまでがミッションだ。ところが綾辻さんは引かなかった。
「どうして? なんで? 私じゃ駄目?」
彼女は男子の間でも人気の可愛い子で、誰からも可愛い可愛いとちやほやされていた。だから当然俺が断らないだろうと思い込んでいたんだろう。彼女の俺を見る目にショックと怒りが宿っていた。
「つうかさ、俺なんかのどこがいいの?」
これは本心。
「どこがって、全部だよ。全部かっこいい」
全部ね。
「俺の全部を知ってるの?」
「知らないから知りたいの」
「知ったら嫌いになるよ、きっと。だから、やめた方がいい」
綾辻さんは首を傾げて、おそらく俺の忠告を右から左に受け流した。
「ふうん、他に好きな人がいるの?」
「……まぁ、そうだよ」
こう言うのが一番効果的で「じゃぁ、仕方ないね」って諦めてくれるはず。でも、綾辻さんはまだ引かない。
「誰? 佐倉くんが好きな人って誰」
「え? 教えるの?」
「教えてくれないと納得出来ない」
面倒くさいな。
「言ったら納得してくれるの?」
「相手による。納得出来る相手だったら、私、諦める」
「もし、納得出来なかったら?」
「諦めない。だって、私じゃ駄目? 一度付き合ってみてから決めるんじゃ駄目? 私、佐倉くんが好きになってくれるように頑張るよ」
しつこいな、こいつ。
「頑張るって、何を?」
「佐倉くんの好きな髪型とかメイクとかにするし、性格だって変えるし、佐倉くんがしてほしい事なんでもしてあげる」
かなりうっとおしい。
「へぇ、なんでも?」
彼女はこくんと頷く。
そして、なんらかの技で大きくした瞳をウルウルさせて俺を見る。ぷるんとした唇を少し突き出して、綺麗に整えた眉をひそめる。その表情は彼女の勝負顔なのかもしれない。男を落とすための。こんな風に見つめられたらたいがいの男は落ちるよな。悪いけど、俺だってその唇に触れたくなる。それに自信があるっぽく突き出された大きな胸。これをどうにでもしていいと言っている。参ったな……。絶望に似た感覚が俺を襲う。でも俺の決意は固い。
「あのさ、つきあうってさ、つまり、俺とエッチなことしたいの?」
「それは、佐倉くんがしたいなら」
「正直に言うけど、俺は君とエッチなこと、できる自信がない」
きょとんとした顔で俺を見ている。
「キスも……ちょっと無理。生理的に……」
彼女は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。顔に屈辱の二文字がはっきりと現れている。これで終わった、と思いきや、綾辻さんは俺に抱きついた。俺の腕ごと、まるで拘束するように。
「なんでそんな嘘言うの」
綾辻さんの体がぎゅうっと押し付けられる。ちょうどみぞおち辺りに、彼女の大きくて柔らかいおっぱいがあたっている。俺は咄嗟に腰を引くが、させないとばかりに彼女の腕に力がこもる。さすがに体の反応は高校生の男子だよ。早いし敏感だ。
「そんなの、嘘じゃん」
やばい。強敵だ。この人、すでに場数を踏んでると見た。
綾辻さんの体がさらにぴったりとくっついてくる。固くなった股間が彼女の体の温もりに包まれる。やばい、このままだと本当にやばい。俺は力を振り絞って綾辻さんを突き飛ばした。
冷たい汗が脇の下を流れていた。固くて冷たい鉄球が胃のあたりからこみ上げてくる。やっとの事で出した声はカサカサだった。
「……キモチ悪いよ、君」
俺の普通じゃない様子を見て、嘘ではない本気な拒絶を見て、綾辻さんは泣きそうな顔になった。それでもキッと俺を睨みつけてから、走り去った。危なかった、けど、一応、ミッションクリア。
手のひらにかいた汗をTシャツで拭いながら、ダメージを受けた心と息を整える。
部室に戻ろうとした時、用具入れから誰かが出てきた。
桂木だ。
冷ややかな目は「最低」と俺を非難しているようだった。見られてた……。
「まだ帰ってなかったの?」
誤摩化すように訊ねた。
「もしかして、これからバレー部?」
まだジャージ姿だったからそう思ったんだ。でも桂木は無視して、スポーツバッグを肩にかけて行ってしまった。
綾辻さんを傷つけてしまったことに罪悪感がないわけじゃない。
女の子に恋心を抱かれるのはもちろんいい気分だ。でも同時に涌き上がるのは嗜虐的な感情。強烈に相手を傷つけたくなる。俺なんかを好きになった罰。モテたいと思うのは、こんなゲームを繰り返すのは、何の為だ。分かっているのは、俺は俺を好きになってくれた人を幻滅させる事しか出来ない、ということ。好きになった女の子を幸せに出来ない。出来るのは傷つける事だけ。裏切る事だけ。なんて惨めなんだろう。何で俺は、欠陥品なんだろう。
「くそっ」
力任せに部室のロッカーの扉を閉めた。スチール同士がぶつかる衝撃音が狭い部室に響く。
頭の中がざわざわしている。振っても振っても羽音のような雑音が離れない。
カタン、錆びた冷却スプレーが落ちて来て頭をかすめた。扉を閉めた衝撃でロッカーの上から落ちて来たのだ。俺は、乱暴にそれをロッカーの上に投げる。と、誰かの制服が丸めて置いてあるのが見えた。制服やジャージや得体の知れないモノが丸まって置いてあったり、挟まっていたり詰まっていたりするのは男子部室では見慣れた光景だ。けど、ブラウスが真っ白だったからか、違和感を感じて俺はロッカーの上のそれを手に取った。女子のブラウスと制服だった。スカートのタグに『桂木百花』と書かれている。俺は急いで外に出て、桂木の姿を探した。でも、もういなかった。
なんで男子部室のロッカーの上に桂木の制服があったのか、だいたい想像はつく。陰湿な嫌がらせ。たぶん、用具入れの中で桂木は制服を探していたのだ。
制服をどうしようか迷ったけど、直接渡したら桂木が傷つくような気がして、教室の彼女の机に置いておこうと思った。
薄暗い教室に入ると、後ろの隅っこに桂木が立っていた。彼女は驚いて振り返った。
「いたんだ」
「……何?」
桂木は掃除用具入れのドアを閉めた。
まだ探していたんだな。
俺は制服を差し出した。
桂木は走り寄って乱暴に制服をもぎ取った。
「男子の部室にあった」
桂木は制服をスポーツバッグに詰め込むと、教室を出て行った。ただ、俺の横を通り過ぎる時に、「最低」と小声で吐き捨てた。俺に言ったのか、俺じゃない誰かに言ったのかは分からない。でも、それ以来、桂木はもっと俺を避けるようになった。
スキを押すと「2gether」の名言が出るよ!タイBLドラマ「2gether」布教中