見出し画像

『碧と海』 連載小説【1】


「■■いかい?」

 男は漫才師のような赤いジャケットを着て、黒いまん丸の、レンズも真っ黒なメガネをかけて、ビョーンと伸びたツノを二本生やしている。ニコニコしながら、ツノを揺らして俺を見ている。

 これは夢だ。何度も見ている夢。

 俺は幼い。すごく幼い。

 その部屋は甘い。甘い匂いで満ちている。お菓子の匂いだ。

 目の前にはぷるぷるのプリン、甘酸っぱいオレンジジュース。苺のケーキも、きらきら輝くゼリーもある。俺は片っ端からそれを頬張る。やわらかくて、つるりとして、ふわふわで、俺は誕生日なのかな、と思う。パパなのかな、と思う。目の前で、ニコニコ笑っている黒めがねの赤い男は、パパなのかな。

 これは夢だ。夢だけれど、記憶かもしれないって思う。幼いころの記憶。だって、そんな気がするから。気がするだけだけど。

「パパなの?」と聞くと、

「あーんとね、ホシは落ちちゃった。ホシは丸いから、落ちちゃうんだ」と言う。そう言って、メガネをはずす。途端に男の姿が見えなくなる。まるで奇術のように。でも見えないけどいるのは分かる。手品なの?

「パパなの?」

 そうだよ、でも、ママには秘密だよ。

 ママが知らない魔法だよ。

 いつの間にかオレンジ色の温かい灯りが部屋に広がり、俺を包み込んでいく。

 それは俺の■■を包み込む。

 ■■を奪ってゆく。

 そうして俺は、

 ■■■のに何が■■■いのか分からない。




   ぶ

 中学校の卒業式の後の事は思い出すのも嫌だし、思い出すだけで発狂するか死んでしまいたくなる。もしくはその両方だ。それでも時々その記憶をなぞっている時がある。気が付いたら再生されていて、しかも細部まで鮮明に思い出そうとしてしまっている。思い出せば苦しくなるだけなのに、むしろ俺は苦しみを欲しているのか。

 その思い出したくもない中学の卒業式。その時すでに俺は、女の子とは付き合わない、と固く決意していた。なのに、その日俺は生まれて初めて女の子とキスをした。固い決意だと思っていたそれは結局決意ではなく「女の子とは付き合えないな」というただの諦めでしかなかったってわけだ。

 キスした子とは一度も同じクラスになった事は無いけど、委員会がずっと一緒だった。図書委員だ。名前は、青山さん。何を読もうか迷って「この本どうだった?」と青山さんに聞くと原稿用紙一枚分くらいの感想を聞かせてくれる。原稿用紙一枚ってところがまたいい。面白い、つまんないでもなく、ダラダラよくわからないあらすじを述べるでもなく、面白そうな部分だけ切り取って簡潔におすすめしてくれるのだ。俺はそういう彼女にすっかり感心してしまった。俺のそんな尊敬の念が伝わったからか、俺たちはあっという間に仲良くなった。彼女みたいな、読んだ本についてさらりと、でもまじめに意見を交わし合える人材はかなり貴重だったと思う。「カフカの作品で好きなのは、未完っていう所なんだ」という俺に「オチがない事を含めてシュールだよね」と答えてくれる綺麗で素敵な同級生なんてなかなかいない。そう、綺麗で素敵な女の子だったんだ。長い黒い髪をいつも後ろで一つにまとめていて、キラキラした派手さはないけど、聡明な美しさが滲み出ていた。俺がサルトルの『異邦人』を貸せば、彼女はトールキンの『指輪物語』全巻を二重にした紙袋に詰めて貸してくれた。ランボオの詩『永遠』の訳については、いつでもどこでも盛り上がった。彼女は中原中也の訳が好きだった。

 また見つかった。

 何がだ? 永遠。

 行つてしまった海のことさあ 

 太陽もろとも云(い)つてしまつた

「ことさあ」ってのがいいよね、と青山さんはしっくりくる読み方を試すように何度も朗読した。ランボオの詩の半分くらいがよく分からない文字の並びに思えたとしても、彼女と声に出せばかっこよく感じるのだから不思議だ。精一杯背伸びしてカッコつけるのが、カッコいい気がするのだから不思議だ。

 そんな関係をずっと続けたかった。でも、結局それは叶わなかった。女の子とは付き合わないという決意が折れた時に、彼女との関係も終わってしまった。俺が、終わらせてしまったのだ。

 それをやらかした後、俺は生まれて初めて絶望を実感した。絶望、なんて大げさなと笑う? でもその時はパニックだったんだよ。どんなときでも表だったカードがいつの間にかひっくり返って裏になっていた。生の裏に書かれている文字は死だ。気がついたら死に向かっていた。死ぬことが救われるたった一つの道だと思ったんだ、たぶん。飛ぼう、と、どこかの橋の欄干から身を乗り出した。川の水は少なくて浅かったけど、落ちれば頭を打って死ねるだろうと思った。じっと下を覗き込んでいると、川の流れに意識がどんどん吸い込まれて行った。目を閉じて頭を垂れて、足を地面から放せば飛べる。飛ぼう。死神が意識を引きずり出していくのが感じられた。一瞬、空っぽになった気がしたその時、ふと、あぁ、なんでなんだろう。ふと机の引き出しに隠してある美少女恋愛ゲームのソフトが頭をよぎった。違うんだ、あれは俺が好きなミュージシャンが昔はまっていたという恋愛ゲームで、そのゲームソフトを中古で見つけて思わず買ってしまって、でもやってみたら完璧にクリアしたくなって……。青山さんにあれを見られたら、必死でカッコ付けてたのが台無しだよな。いや、無いだろ。見られる事なんて無い。けど……せめてエロゲーだったら、男の子なのねと許してくれるかもしれない。けど……攻略本まで買ったのはまずったな。クソっ。あのクソゲー、さっさと捨てておけばよかった。何度やっても本命の子から告白されない、クソッタレなゲーム。クソッ、バカだな、こんな事を考えても意味がない。全く意味がない!

 死ぬ気が八割萎えたところで、母さんの事を考えた。父さんの事も。俺が死んだら、たぶん母さんは狂乱する。何故だかそう確信出来た。泣き叫んでいる母親の姿が目に浮かんだ。父さんは、冷静かもな。本当の息子じゃない訳だし。いや、違う。父さんがそんな人じゃないことは知ってる。本当の息子のように大切に思ってくれている。母親は狂乱し、父親は静かに山にでも登るだろうか。それとも、机の引き出しを見るだろうか。そう、あのゲームを隠している引き出しを。二次元の女の子しか興味がなかったのかとか思われるかもな。あぁ、そうか。青山さんは納得するかもしれない。佐倉海斗は二次元女子しか興味が無かったんだ、だからか、と。

 違う、そうじゃない。そうじゃないんだ……。

 俺は飛ぶのを止めた。

 そしてまた決意した。女の子とは付き合わない。絶対に。

 ちなみに、この決意はまだ破られてはいない。まだね。


スキを押すと「2gether」の名言が出るよ!タイBLドラマ「2gether」布教中