【私の生い立ち(学生時代)】
私は1963年1月25日に臍の緒が首に巻き付いた状態で産まれ、酸素が頭に行き届かず、結局脳性小児麻痺になり、手足言葉に障害が残りました。
就学前のリハビリの結果、筆記と食事、歩行は何とかできるようになりました。
小学校は4年生までA養護学校に通学し、それ以降は地域の小学校で学びました。高校はB学院でした。B学院は障害を抱えている生徒を比較的大きく受け入れていました。私が入学した学年でも、500名のうち私を含め5人の障害を抱えた生徒がいました。各クラスに1人ずつ在籍されれば良かったのですが、どういう縁か私のクラスには、私のほかに同じ脳性小児麻痺の生徒がいました。しかも、障害の程度は私よりも軽く。勉強面では互角に対抗できましたが、身体を使う体育や柔道は彼の方が優れており、私がいくら頑張ろうと、彼に追いつくことはできませんでした。
彼は折角養護学校ではなく、一般の高校に入学しながら、同じクラスに自分と同じ障害を持った生徒がいることを歯痒いと思ったのでしょう、私を排除するようにしました。
具体的に言うと、体育や柔道の時に私が彼に追いつこうと一所懸命行っているにも関わらず、私に「もっとちゃんとやれ!」とか、柔道の乱取りのときに私と組みたがり、私は立っているだけでやっとなのに、彼は私に軽く蹴りを入れたり、彼が重心を私に入れたりするだけで私は倒れてしまいます。こんな時、またしても彼から「もっとちゃんとやれ!」と檄が飛びます。体育や柔道のある日は、くたくたになって帰宅します。しかも、身体の至る所が痛くなり、その痛みはその日だけでは治らず、翌日その翌々日まで引きずり、学校を休みがちになりました。そうこうするうちに、クラス全体は彼の方に付くようになり、私は完全に孤立してしまい、とうとう学校に行けず、1年間を棒に振ることになりました。
そのことがあり、同じ障害者がいるところには入らないようになりました。
大学は香川県にあるC大学に入学しました。一人生活は初めてでしたが、下宿は当時としはもう珍しくなった賄い付きの下宿に入りましたが、2回生時から大家さんの都合で賄い付きでなくなりました。
当時はまだ歩くことができていたので、香川への行き帰りも1人で大丈夫でした。また、家でもたまに料理を作っていたので、賄い付きでなくなっても2回生からは自炊で何とかやってきました。
(次回に続き)
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