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藤嶋咲子の「これはパイプではない」

藤嶋咲子さんの個展「Unstoppable Unfolding」を、表参道のDiEGOに見に行きました。2020年10月31日(土)まで。

場所は、表参道から裏原宿に抜ける道沿いの黄色いビル(オリエンタル原宿)の2階です。

土曜日は幸い天気がよく、ギャラリーの中も明るくて、絵を見るのにとてもいい環境でした。残りの会期は短いですが、今週は天気が良さそうなので、ぜひ足を運んでください。

欲しくなる絵

藤嶋さんの作品はとても魅力的で、真摯な人柄も現れていて、見ると購入したくなるのが特徴です。

これは作品としては最良の美点で、イメージとして鑑賞したいと思わせるだけでなく、所有したいものを作れることは、とても大事だと思います。

今回のシリーズは、新しい技術を使っていました。樹脂です。

絵を描いて、透明な樹脂を流し込み、それにまた絵を描いて、樹脂を重ねているので、絵に奥行きが出ています。レイヤー(階層)と言った方がいいでしょうか。

これがとても面白い効果を出していました。もしかすると結構重量があるのかもしれません。

個人的に注目したのは、「工場人間」の4部作です。これについて感想を述べる前に、以前見た作品もあわせて振り返ってみたいと思います。

無機的でも、有機的でもなく

藤嶋さんの作品を最初に見たのは、2015年に新宿眼科画廊で開かれた「プランツ・ロマンス」の後の、渋谷の個展でした。

この個展は、見た後にいろんな人に紹介したら、その中から絵を購入する人が数名出て、さらには魅了されすぎて個展に出ていない大きな絵を買いつけに行く人まで現れたという「事件」が起きたのでした。

で、「プランツ・ロマンス」について、大山顕さんは「製油所モチーフなのに夜景を描かないのがすごい!」と絶賛していたけど、

僕はそれよりも、パイプの描き方のある種の「特殊さ」に魅了され、在廊されていた藤嶋さんに感想を述べた記憶があります。

実は工場のようなパイプを描く人は他にもいて、よくあるのはピート・モンドリアン的な、無機的なデザインとして描くパターンだけど、あまり惹かれることはありませんでした。

※なお、ロラン・バルトは「明るい部屋」の中でモンドリアンの肖像を掲載し、キャプションに《知的なことは少しも考えていないのに、どうして知的な雰囲気をもつことができるのか?》と意地悪に記しています。

また、パイプを有機的に捉える人もいて、まるで蔦の這う植物や、動物の腸のように、つまり生き物のように描く人もいますけど、これにも正直あまり萌えなかった。ひねりがなく、凡庸に思えた。

藤嶋さんの工場=パイプにも、もちろん無機的な要素も有機的な要素もあり、それを彼女が楽しんでいることは伝わってきますが、そういうイメージだけに寄りかかっていないところに作品の魅力があります。

無機的でなく、かといって生き物のメタファーのように有機的に描くわけでもないとはどういうことかというと、人間が造ったものとしてのパイプの面白さを、絵の中で再生(再現というかシミュレーションというか)しているような感じがしたということです。

言い換えれば、人間が頭の中で、知識を蓄え、それを基に思考し、計算し設計されたものが外に出たものとしてのパイプ。

人間による「知的構成物」としてのパイプに、藤嶋さんが心を奪われ、その思考や運動を絵として定着させようとしたのではないかと感じたわけです。

なので、今回の、人間の顔の上部の頭の上にパイプが拡がっている作品を見たとき、おおやっぱりそうなのか、と勝手に思ってしまいました。

「意味の塊」としてのパイプ

「工場萌え」のように扱われる藤嶋さんのパイプは、その形状とは裏腹に、むしろ「社会システム」のメタファーの色合いが濃いのではないか。そんな勝手な想像を巡らせています。

それは藤嶋さんが、今回の個展を開く前に、ツイッター上でヴァーチャル・デモを行って話題を呼んだ連想でもあります。

多くの国民が安全安心に過ごすために発達してきた社会システムが、時代が変わる中でさまざまな副作用を生み出しながら、その形を変えていく。

その間で、波に乗ってうまく生きていける人もいれば、押し流されて苦しむ人もいる。しかし、すべての人を救うことはできず、きょううまく生きていけたと思う人も、あしたは何も保証されていない。

われわれは、どこまで「最大多数の最大幸福」を実現できるのか。本当にそれを追求するのが善いことなのか――。

そんなことを考えながら作品を見ていたのですが、その後でご本人の「解説」(ギャラリーに置いてあった文章)を見ると、合っている部分と合っていない部分があるようです(笑)。

工場は、配管一本からネジの一つまで無意味な要素を持たない。客観的な論理の下に紡がれていく機能の集合体、まるで「意味の塊」だ。
比べて私というものは、全く持ってコントロール困難で、思考の配管は縦横無尽に伸び、無意味にショートカットしたり迂回したり戻ってきたりする。気がついた時にはもう整理できぬ混迷極まる巨大で面倒臭いハリボテだ。材料が入っても、何がどこから出てくるのか分かったものではない。
しかし、工場を作れない私を工場は作れないと思うのだ。

ただ、藤嶋さんが工場=パイプを、無機物でも有機物でもなく、「論理」「機能の集合体」「意味の塊」と捉えている点は、僕の個人的な感想と遠からずという感じかもしれません。

つまり、藤嶋咲子の描くパイプは、パイプであってパイプではない。そこでこの文章のタイトルを、ルネ・マグリットのオマージュとして“藤嶋咲子の「これはパイプではない」”と名付けてみたいと思います。

ちなみに「工場人間」の英語タイトルは「Plant Manager」で、直訳すると「工場長」になるのですが、これを「工場人間」としている意味を考えてみるのも面白いです。

他の2枚もいいです

「工場人間」4部作(ギャラリーの入口に近い方から「工場人間#1」「工場人間#3」「工場人間#2」「工場人間#4」。本記事のトップ画像は「工場人間#3」より)の他に、2枚の作品がありました。

1枚はかなり大型で、工場をCGでコラージュした背景の上に、アクリルや蛍光ペンのようなもので描き重ねられたもの。個展のタイトルにもなっている「Unstoppable Unfolding」です。日本語訳すると「止められない展開」ということになるでしょうか。

草間彌生のようなポップな模様が描かれたパイプは初めて見た気がしました。ブラックライトを当てると絵の場所によって光り方が変わるというところも、自室に飾る時に楽しいのではないかと思います。

最後の小さめの作品は「Unraveling Logic」。「解き明かされる論理」とでも訳せるでしょうか。

個人的には実はこの作品が好きで、目の前に道が続いていくような絵なのですが、線の太さや長さ、色などを巧みに組み合わせて、樹脂のレイヤーも相まって、極めて遠近法的に描かれています。

このあたりは、古典的な技法も熟知している藤嶋さんらしい試みというか、遊びのようにも思えました。とにかくおすすめです。

※一番大きな「Unstoppable Unfolding」以外はこちらで販売されています。最後の小さめの作品「Unraveling Logic」は売れちゃったみたいですね。

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