春のいやなもの
早く終わらないかなぁ……。
周りに居並ぶ同級生たちは皆、壁のぐるりの紅白幕に囲われて、神妙な面持ちで中学三年間の思いでを噛みしめるように立ったり座ったりを繰り返している。私はこの広い体育館にひとり、恥ずかしいすっぽかしをくったような気分でいる。
春の締まりのない埃っぽい空気が、この大きな箱の中で澱んで、高い窓から差し込む陽光で白っぽく濁り、視界一面は白飛びした写真のように色味がなくなっている。映像として見るとあんなにも目に鮮やかな紅白幕は、ここからは精彩を欠いて、葬式の鯨幕とそう変わらなく見え、半年前に目にしたそれの記憶が蘇る。校庭に咲く淡い色をした桜の花びらも、咳き込むような灰石色の校庭の砂も、病院の黄ばんだ仕切カーテン、火葬場の色気無い大理石の内装も、うんざりするほど同じに思える。こんな気持ちが、まだずっと、死ぬまで続くのだろうかという事を考えると、ただ、「早く終わらないかな」という思いだけが、確かなものとして感じられた。目に映るもの、聞こえてくるものほとんどすべてに厭々として、毎日倦怠感でいっぱいだった。
私の学生としての態度は最低だった。無断欠席もしばしばしたし、部活は必修だったがほとんど出ず、何事にも関わり合わないよう隙あらば逃げるように姿をくらまし、授業中はノートも取らずにぼうっとしていた。──本当はぼうっとしていたわけではなくて、授業を聴きながらノートに取るという当たり前の事が苦手で、独り黙々と教科書を読み進めていた。他人との関わり合いが億劫で、なるべく他人を避けていた。そんな事だから蓋然協調性もなく、傍から見れば気味の悪いこと間違いなかったけれども、それでもほとんどの真面目にやっている生徒よりはテストの点数はとれていたので、(我ながらひどい態度だとは思うけれど)それで正解だと思っていた。必要最低限以外、学校──というより社会と、関わる事を避けていた。そうすることでなんとか、毎日接しなければならないこの厭な世界との距離を均衡させようとしていた。
然るに教師たち──いや学校全体からは疎まれていて、さながら不可触賤民のようだった。私のペンケースがサッカーボールにされて粉々にされたり、私の机や私物が校庭の真ん中に置き晒しにされていても、教師らは何ら気にも留めない様子で、私が独りそれを片付けるのを、厄介そうに眺めているだけだ。彼らの関心はそんな事より、むしろ私の素行のようだった。だって最悪な私は、暗くて喋らず不気味だし、部活には来ないし、無断欠席すらしばしば、授業中はうわのそらだし、声を掛けようにも気づけば居なくなっている。不真面目だけれど生活指導に呼び出すほどの問題は起こしていないし、校則違反もしていない。──まるで教師たちをおちょくっている様だ!と思われたに違いない。きっと陰で悪い事を、ばれないように巧妙にやるタイプなのだと思われていたのだろう。そんな雰囲気に弁明する気にもなれなかった。
おりから、卒業式の前日も呼び出されて、なぜ合格報告に来ないのかと叱られていた。一応は私なりに頑張って、それなりに名の知れた高校に受かったのだが、合格おめでとうの一言も無く……──そんな思いが一瞬でも過ったことは、自分でも意外でショックだった。いまさら何を期待しているのだろう。もうこんな場所には一秒でも長く居たくないだけなのに。
私が学校に一秒たりとも長居したくなかった理由は、勉強や人間関係が上手くいかないからという事は、──それは勿論あったけど、一番の理由は、あの学校という構造の中に居るという事が厭で仕方なかったからだ。私は物心ついたころから、四角くて整然とした、合理的で機能的な構造物に、しばしば嫌悪感を覚えていた。それは例えば、オフィスビルや役所、警察署や消防署、病院、駅や電車や団地といった類のものだ。遠くからそれらを眺めるのは嫌いではないのだけれど、その〈中に居る〉ということを意識すると、途端になんだか息が詰まって気分が悪くなった。あの毛糸の編み目のように連なる窓々のひとつひとつに人間が嵌め込まれているという事を考えると、まるでサルトルの小説の主人公にでもなってしまいそうに思われた。
昔からよく泊まり込んでいた祖父母の家──それは千駄木にある、昭和初期に建てられた落ち着きのある日本家屋だった──から帰る時、私の住むニュータウンの景観である、巨大な墓碑のように立ち並ぶ鈍色のマンション群や、霊廟の様な石とコンクリートで固められた公園、ガサガサとした質感のブロックが敷き詰められた歩道なんかが目に入ってくると、いつもげんなりとした気分になった。この町という決まり切った構造の中に帰るという事に辟易して、重力が倍になったかのように足取りは重くなった。
当時の私の家は、葛西のソ連みたいな公団住宅だった。それはまさに”気分が悪くなる”建物の範疇だったけど、普段そこが私にとってほとんど唯一の居場所であり、ゲマインシャフトで、なによりそこは残り少ない貴重な<日常>の時間だった。
この頃の私にとっての日常とは、目に見えて毎日死につつある父と、医療費のために働く障碍者の両親の姿だった。この異常な日常風景に、私は日々理不尽と無力感を感じ募らせていた。両親は二人とも障碍者で、ましてや父は死にそうなのに、──否、死ぬ。遠からず確実に。ともすれば毎日死んでいる。死というものは即時的に起きるものでは無いという事を、人々は誤解していると思った。父はまるで悪趣味なデスゲームのモブキャラのように、脳腫瘍という主宰者によって、その日の風の吹き回し次第で、どこかしらの脳神経を圧し潰されて、機能不全にされていた。先週は左腕が動かなくなった。今日は自力で起き上がれなかった。明日は歩けるかどうかも分からない。分からないけど、入院したところでどうにもならないから、自宅にいる。一応は手術の順番待ちと言う形だったが、手術できる医者が世界に一人しかいない(鍵穴手術で有名なFドクターだ)と言うから、ほとんど終末期医療のような状態だった。そして、どういう理由か分からなかったが、──おそらく経済的な理由からだと思うが、それでも父は会社に行っていた。耳が聞こえなくても、体が思うように動かなくても、杖をついて、よろめきながら、寒くても暑くても、亀のような速度で、文字通り死ぬまで。
こんな異常な状況なのに、昨日は何事も無かったかのように過ぎ去り、今日も当たり前のようにお金が必要で、明日はもっと状況が悪い。四角くて整然とした、合理的で画一的で殺伐とした世界が、今日も平常に稼働している。そんな日常の中で私は、今どこかで父が斃れていないだろうか、聾で身体も不自由でASDの母とどう付き合えばよいのか、<時間>と<不安>と<苦痛>という言葉は完全に合一して、<将来>という概念に全く現実味を持てなかった。だから、少なくとも今という時間を、日常の最期を、一秒でもあの構造の中で消費したくはなかった。学校には行きたくない。どこかに行くのならば、このつらい現実から遠く離れた世界へ行って、全てを忘れ去りたかった。
半年前、──中学3年の夏に父は死んだ。待ちに待った最後の手術は一応の成功をおさめたが、予後は芳しくなかったようだ。──だが私は知っていた気がした。手術は成功しようが失敗しようが、父はすでに死んでいると。それ以外の未来が想像できなかった。だから何もかも驚くような出来事は無い。ただ早いか遅いかだけの違いで、結果など最悪も最善も存在しない。父の亡骸の前で、そんな事を考えながらなんら狼狽もなく立ち尽くす私を見て、担当医は「なんて冷たい家族なんだ」と洩らしたそうだ。後日様子を見に来た叔母からその話を聞いた時、私はいよいよ猛烈なあの気分の悪さに襲われて、その場から逃げるように駆け出した。
担当医は、向井理に似たイケメン研修医だった。彼はとても親身で、まるで医療系ドラマから抜け出てきたような出来過ぎたキャラクターに、私はなんだか気後れした。父の手術前、病気の遺伝を診断するため、彼が私のうなじのあたりをやさしく触診した。そしてさも自分に善い事が起きたかのように朗らかな笑顔を浮かべて、「大丈夫、健康ですよ」と優しい声で診断を下すのを、私は複雑な気分で聴いた。確かに病気で苦しい思いはしたくはない。だけれど、生きていくのもうんざりだ。なのにそんな嬉しそうな顔をされると、どうしたらいいのか分からなくなってしまう……。
叔母は父の妹で、とても美人で頭もよく、父をやや過剰なほどに敬愛していた。それに母のことを、父には不釣り合いだったと思っているようだった。叔母が私を褒める時は、決まって「そこが父に似ている」と言うのだ。だが叔母の息子──いとこはとても出来が良く(これまた顔も良かった)、後の話だが司法試験を首席で合格するほどだったので、私の出来の悪さには大層失望していた。あの兄さまの子なのに、顔も頭も悪いなんて、一体誰のせいかしらね、と。
私は駆け込んだトイレで、胃液と、涙と、鼻水の混ざった液体を垂れ流し嗚咽しながら、便器の水溜まりを見つめていた。「いやだなぁ……」。ゲマインシャフトもゲゼルシャフトも無い。ただ生きているだけで、何もかもが本当に厭だ。
そういえばその夏の、少し前の事……、──学校生活の思い出と言えるほどのものかはわからないが、一つ印象深い事件があった事を思いだした。
夏休みだというのに、学校から家に電話がかかってきた。私に特に悪意をむき出しにしている理科教員のYからだった。Yは三十代半ばの男性教員で、口ひげを生やした風貌を<イチロー>に似ていると自負していた。1年生の時のオリエンテーションで、Yが学生の時に何を考えていたのかというクイズを出した時、私だけ「学校に放火しようと思った」という選択肢を選んだことを根に持っていたのだろうか、担任でも生活指導担当でもないのに、やたらと私の行動に目を光らせていた。
「ちょっと聞きたい事がある。制服は着なくていいから、いますぐ登校して欲しい。」
私の中学は校則に厳しい事で有名で、病気だろうと怪我だろうと、いかなる理由でも制服を着用せずに登校することを固く禁じていた。実際、忘れ物を取りに私服で登校したため3日間の謹慎になった生徒がいた。私は嫌な予感がして制服に着替えて登校したが、それはあまり意味は無かったように思う。
Yの話はこうだった。クラスメイトのSが万引きをして捕まった。私にやれと言われた、と。Sは生真面目で不器用な、クラスでは目立たないタイプの女子だった。彼女に対しては何の感情もわかなかった。その性格ゆえ、きっと魔が差したのだろう。何か言い訳が欲しくて、私をスケープゴートにしたのだと思う。──皆が暗黙の裡にそうするように。このクラスで起きた不都合なことは、だいたい私のせいになる。何かが無くなったり壊れたりしていたら、いつも逃げ隠れしているあいつの仕業だろうと、自動的にそうなる。そうする事で全てが丸く収まる。それがこのクラスの構造なのだ。
卒業式の日、私の隣はAという、桜木花道と流川楓の間をとったような、髪を赤く染めて制服を着崩した長身の不良男子だった。──もちろんそれは校則違反だったが、彼は教員に注意される度に激しく反発して、いつしか誰も彼を咎める事はなくなっていた。彼の鮮やかな赤い髪は、居並ぶ黒髪と黒い制服の暗幕の中に、火星のように際立っている。私は彼の、面倒を起こしてでも自分を曲げずに貫き通そうとする行動原理を馬鹿らしい事だと思っていた。
「不良」と言ったが、私は彼が校則破り以外に悪いことをするのを見たことはない。私をいじめていたやんちゃグループのようにつるんで威勢を張る様子もなければ、校内で暴力沙汰を起こしたという話も聞いたことがなかった(校外での喧嘩の噂は耳にしたことがあった)。クラスが違ったので彼のことはよく知らないのだけれど、私の目にしたことのある彼の姿は、独り、静かに、日当たりの良い場所で、しばしば授業をサボっている様子だった。そこには私と違ってげんなりした様子はなく、自分の勝ち取った時間を愉しんでいるような、そんな余裕が感じられた。
神妙な面持ちの周囲とは違って、彼は落ち着きなくそわそわとしていた。Aが私の事を知っていたのかどうかは分からないが、彼もまた、周囲とは様子の違う私に気が付いたのか、ちらちらとこちらに視線を向けると、ついに小声で話しかけてきた。
「ダリぃな。早く終わんねぇかな?」
私は、これまで彼と一度も話したことが無かったことを後悔した。ずっと誰にも理解されないという気持ちで過ごしてきた毎日に、交わらない平行線のように彼が存在していて、同じベクトルを向いていたのに、ずっと気づかないふりをしていたような気がした。これが最初で最後の会話になりそうだと思いながらも
「そうだね」
と短く返した。そうしながら彼が、この退屈な卒業式を壊してくれないかと、どこか期待していた。彼はおもむろに前へと踏み出したかと思うと、黒い墓石のように整然と立ち並ぶ生徒たちの後頭部の並びを、彼の赤い髪が彗星ようにすり抜けて行く。彼はそのまま壇上へと駆け上がってマイクを奪い、「ダリぃからもう終わりにしようぜ!」と宣言した。それから舞台から飛び降りて駆け戻ってくると、私の手を取り、鯨幕で囲われた体育館を飛び出してゆく。二人の駆ける足の巻き上げる校庭の埃っぽい砂は純白の新雪のように輝き舞い、霞んだ空に掻き消えそうな淡い桜の花びらは白浜に打ち寄せた桜貝のように瑞々しく映えて、紅い髪はよりいっそう鮮やかに、ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔ったようになって、燃えているようだ。「蠍の火」はアンタレスじゃなくて、火星なんじゃないだろうか。そしてきっと、蠍は私なんだ。
そんな空想をしている間に式はクライマックスを迎えた。『旅立ちの日に』を唄い終え、壇上で誰かが何かを言うと、大多数の生徒が感極まって涙を流し始めている。私はあまりの温度差に、どこかへと逃げ出したいくらいだった。だけど今日は彼がいる。Aの方を向いた。だが彼もまた、その髪と同じぐらいに顔を紅くして、目に涙を溜めていた。
早く終わらないかなぁ……。私はそう思った。こんなこと早く終わらせて、──でも、そしてどうしたいのだろう。もう何もない。帰る場所も、サボる学校も、日常も。また気分が悪くなってきた。
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