もんてすきゅっと㉑

 私たちの住む横浜――否、YOKOHAMAはいわば経済特区だった。特産はナシ、目立っていいところもない、治安は最悪――にもかかわらず、国内や海外から少なくない観光客が殺到する。なぜだ? 分からない。一切は全て謎に包まれている。ある日本の高名な経済学者は言った。「我々の経済理論は完全無欠だ。――YOKOHAMAがなければの話だが」。世界を巡っている吟遊詩人はこうも言う。「私は不可解な事件に二度立ち会った。一つは先住民が毒ミミズを煮た液体を墓にかけて死者を生き返らせたこと。もう一つはYOKOHAMAだ」。
 実際、YOKOHAMAを訪れれば我々は目にすることだろう。――永遠に終わらない工事を。駅だ。YOKOHAMAの中枢をなすYOKOHAMA駅。我々はアレを「五番街のサグラダ・ファミリア」と呼んでいる。あれはいつ完成するのか? 30年前は、2000年に完成すると言われていた。ちなみに今は2025年に完成すると言われている。着工予定に意味はないのだ! YOKOHAMAは自律機関なのである。
「――ここ、鎌倉市でもYOKOHAMAの影響力は絶大でねえ。観光客の多くはYOKOHAMAからの流入なの。この前なんか『ここは横浜県神奈川市鎌倉で合ってますか!』って言われちゃって、どこからどうやってツッコめば――」
「その気持ちわかります」おばさんの言葉に、どうしてかサリが深く頷いた。
「でも、なんで座布団にYOKOHAMAの刺繍を?」私は聞いた。
「それはね」おばさんはハァ――とため息をつく。「この前、〈こども科学博物館〉を名乗る方から、YOKOHAMAの文字がどこにもないじゃないかと怒られてしまって。でも、ここは鎌倉でしょう? おかしいと思って言ったらここはYOKOHAMAのテリトリーなんだから刺繍をしてくれないと困ると言われてしまって。それで仕方がないから座布団の裏に刺繍をしたってわけなのよ」
 そういい終わると、おばさんは失礼と言ってキッチンへ戻っていった。思わず私とサリは顔を見合わせる。きっと彼女は私のことが好きなのだろう。私は彼女の顔を見つめながら言った。
「サリ――ようやく私に一票を入れる気になったのね」
「え!?」サリは驚いて身体をのけぞり、そのまま倒れて頭を勢いよく床に打った。「痛い、なんか色々と痛い!」
「え? なんか違った?」私はサリを助け起こす。
「分からない。何が正解なのかも分からない――」サリは必死にこめかみを押さえて呻っている。
「難しい話ね……」
「いや、ミレイも気付いたのかと思った。ほら、〈こども科学博物館〉ってやつ」
「ああ……そういえばそうね。確かに言っていたわ」
「ミレイのお母さんの一味でしょ。あの人がYOKOHAMAに関わっている可能性がある――」サリは真剣な顔をして、スケジュール帳にYOKOHAMAの文字を書き込んだ。
 そうか――私の母か。母との思い出は正直、燃えている枯れ葉の上を歩かさせられたことしか覚えていない。だから「母」と聞いても単なる他人としか実感が湧かない。だからどこか他人事のような――そんな感じだった。
 縁側から見える庭の外は海が広がっていた。このカフェ自体が少し小高い所に立っていて住宅とか道路とかもろもろが見下ろす形になっている。景色はきれいだ。でも騒音がひどい。道路を走る車が、永遠と大きな音をまき散らしていた。そのほとんどがYOKOHAMAの車だろう――母か。母の魔の手がここまで。

 ガラララン――と鈴の音が鳴った。玄関についていたベルだ。誰かが入ってきたのだろう。見ると、田中さんだった。きっと最新作が書き上がったのだろう。
「ミレイちゃん、置いていくなんて酷いよ!」田中さんは口の中にタイプライターをしまいながら言った。
「ほら、ここきてみんなで食べましょ」私は政治家らしく親切に、田中さんを席に誘導した。「レモネードケーキ頼んでおいたから」
「え、やったあ!」田中さんはナイフとフォークを口から吐き出した。
「いや、田中さん。食器はここで用意されるからしまって……」サリがサリげなくツッコむ。うける、サリのサリげなさ。
「ミレイ、何一人でうけてんの!」
「あらあら、植物プランクトンさんもお越しになったのね」おばさんがキッチンから出てきて言った。
「え!? 待って、じゃあ私がブタ!? おい、待てよ、私がブタってどういうこ――」
「はい、お待たせしました。レモネードケーキが三つね」
 おばさんはテーブルにレモネードケーキを乗せた。それは、想像しているものよりも幾分か小さかった。白い生クリームにかすかにレモンの鮮やかな黄色が色づいている。真ん中に小さくショコラの粒がふりかかっていて顔を近づけると仄かに香ばしい。小さい分、こういった技巧が細部にまで行き届いていて、味が凝縮しているような印象を覚えた。
「かわいい――!」
 サリがスマートフォンを取りだして、しきりに写真を撮り始めた。私は自分のスマートフォンで彼女のインスタグラムのアカウントを確認した。「今日はイツメンでケーキ!」と少々ムカつく投稿があったので、捨て垢でコメントを百個付け加えておいた。いとも簡単にサリにスパブロされて、捨て垢は凍結した。
 バリリィ!
 突如、左側――つまり田中さんの座っている方角から陶器が粉々になったような音が聞こえた。――いや実際に陶器が粉々になっていたのだ。田中さんは皿を食べ始めていた。私はその姿を凝視した。彼女の歯はいったい何で出来ているのだろうか。陶器を破壊する歯――鉄? 鉄か? 私はネオジム磁石を取りだし、田中さんの歯に押し当てた。が、次の瞬間に喰われてしまった。
「さ、じゃあ私も食べよっかな」写真を撮り終えて満足したのか、サリはフォークを持ち上げてかわいこぶっている。私はサリの頭にもネオジム磁石を押し当てた。くっつかなかった。
「なによ、サリの頭は金属じゃないのね」
「いいから、早く食べなよミレイ。お得意の食レポして」
「ふむ――」私はフォークを手に取った。「――これは!」
「ふふ、よく分かったわね」カウンターから顔を出してみていたおばさんが、満足げに頷いた。「それは洋白銀器よ」
「口に当たる部分を白銀にすることで、口当たりが滑らかになると言われる――やるわねおばさん――いや、マスター」
「フフッ、どうぞ召し上がれ」
 私は生唾を飲み込んだ。まさかこんな辺境の場所で最高級品に出会えるとは。縁側から差し込む日に照らされ、フォークはまばゆく光っていた。美しい――海と白銀の組み合わせに、気を抜けば意識が持っていかれそうになる。
「どれどれ、ケーキの方は――」私はゆっくりとフォークをケーキに挿しこんだ。柔らかい。ほろりと崩れてしまいそうな儚さ。ケーキが優しく――赤子を抱くようにフォークを迎え入れる。私は慎重にフォークを動かし、そっと持ち上げた。生クリームで包まれていた中身が姿を現す。
「――これ。中はスポンジと生クリームが層になっているのね。凄くきれいだわ――仕事が丁寧すぎる」
「ミレイさんにそう言っていただけて光栄だわ。ささ、召し上がって」
「ええ――」
 私はフォークを口に近づけた。レモネードのツンとした香りが鼻をくすぐる。唾が口の中に溢れ出てくるのを感じた。ゴクリ――私はそっと飲み込む。舌が――敏感なままで食べなくてはならない。しかし、唾がまた舌を濡らす。私は再び飲み込んだ。そして一気に――私はフォークを口の中に入れた。
 瞬間、レモンの酸味が口の中に爆発的に広がった。口じゅうの動物細胞がレモンの果汁に刺激されて収縮をはじめ、唾がとめどなく流れ続けた。その奥に――滑らかな生クリームがあった。甘すぎず、柔らかな生クリームが舌を優しく包み込み、幸せな気持ちが――幸せとしか言いようのない満足感が身体の中や――外まで(!)このカフェの部屋全体が私になったかのような、海が、道路が、住宅地が、鎌倉が、地球が――私を、生クリームという媒体を通して合一していくような幸福感が私を、私を――満足させた!
「ああ、おいしい! ああ、レモン、生クリーム! これね――これ。いや、洋白銀器は正解だわ。これがステンレスだったら――このバランスは全て崩壊していた。鉄の味が少しでも入ったら、ダメだった。それくらい絶妙なバランスでできたケーキだわ、これは……私は地球誕生の神秘を――このレモネードケーキに見たような気がする」
「ミレイさんなら気に入ってくれると思ったわ。良かった」そう言っておばさんは再びキッチンに戻って言った。私は続きを堪能した。一口一口が私を感動で震わせた。このまま、このままずっと一口が終わらなければいいのに――
 田中さんは皿を食べ終わったようだ。ケーキはいつの間にかなくなっていた。サリは、私の食レポをツイッターに投稿していた。どうやらリツイートが三千件来たらしい。凄く喜んでいた。
「本当はテーブルを食べたかったんだけれど――」田中さんはぼそりと言った。

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