何かを言いたくって書いてるをやめたい

先日、マジで酷い小説を目撃しちゃって、その鬱憤が僕の中で蠢いているんで、もうちょっとこれ書かなきゃなって思って。もちろん、どの小説かは言いません。特定の人を誹謗中傷することになってしまうので……。
ちなみに「いいね」も「フォロー」も「ブックマーク」も何もしていないので遡れないかと思います……!

基本的に人は文章を書くとき、「何か伝えたいことがあって書いている」というのが大半だと思います。
ていうか、文字はそのためにある。自分の中にあるものを、誰かが「読解」できる形に置いておくための道具っていうか。意思疎通を図るために、文字を書いている。
だから、題名「何かを言いたくって書いてるをやめたい」を誤読してほしくないんですけど、この文章は「何かを言いたくて書くことを止めるべき」ということを主張するためのものではなく、ただ単純に、個人的に「やめたいなあ」って思うことを書くためのものになります。

いや、なんでやめたいかって、マジで、こと「小説」において、こと「エッセイ」において、あるいは「詩」において、「伝えたくって書く」って意識が前面に出る文章って、こう、すごく息苦しく見えるんですよね。
「これをするために小説を書いてみました!」みたいな。なんか、小説が利用されている感じがしてなんか嫌だ。その小説が杜撰であればなおさら思う。ムカムカするまである。そう、先日のは端的に言ってムカついたんだけれど。

もちろん、念のために言っておくと、こう「何かを伝えたいがために書かれた小説」で素晴らしい小説は山ほどある。
僕がすぐ挙げられる小説は、小林多喜二の『蟹工船』。あれは本当に凄かった。正直、二度と読みたくない(褒めてる)。この小説は後世の人からは「プロレタリアート文学」と呼ばれていて、大雑把に言えば、労働者への搾取の現状を伝えるのに大きな影響力を持った作品と言う位置を占めている。
だからと言って、「搾取の現状を伝えるために書かれた小説」かどうかは、保留が必要だ。作者の「意図」を確定することはほぼ不可能だからだ。ただ――小林多喜二の行った運動と、彼の死(本当に辛い……)の状況から考えても、『蟹工船』の主題が「搾取の現状を暴く」ことに関わっていることは間違いないと言ってもいいと思う。というか、「何かを伝えたいがために書かれた小説」だという風に読んでも、どっちにしろ名作だと思う。何が名作かは語ると長くなるので省くが、簡単に言えば、「小説として芸術性が高い」の一言に尽きる。

「芸術性」って言葉も、また曖昧だよね……。
なんでここで「完成度」と言わなかったかというと、ここで「完成度」と言ってしまうと取りこぼされる何かがあると思ったからなんだよね。
基本的に「プロレタリアート文学」のように、書き手がすごく切羽詰まった状況にあって、それで「小説」とか「詩」とかにしか、表現を託せる場所がなかった場合、「完成度」という尺度でしか評価できないと、「一生懸命伝えようとした」みたいな切迫感を全部無視することになっちゃう。
小説にも、当たり前だけど「下手だけど心を打つ作品」はたくさんある。あるいは「下手だけど、今すぐに読まなきゃいけない作品」とか。じゃないと、どんどん小説のハードルが上がっていって、終いには明治初期のような、いわゆる「エリートのたしなみ」みたいになっちゃって。それは嫌じゃん。てか変じゃん。
だから「完成度」とは言わず、「芸術性」という言葉を使ってみた。「心を打つ」とか「美しい」とか逆に「めっちゃつらい」とか「気持ち悪い」とか、そこらへん全部を含んでいる言葉だと思っていただけたら。

じゃあ、「芸術性」を損なっている「小説」や「詩」って何かって話なんだけれど、それは、こう「やっつけ感」があるやつかなって思う。
当の本人は切羽詰まった感じもしないし(しているように見えないし)、なのに「小説」の完成度も低い。読者に「読ませてやってんだから感謝しろ」みたいな偉そうな態度も透けてみえる。
こういうのはマジで嫌い。ムカつくわ。小説を道具としてしか見ていない。もちろん道具の側面はあるけど。じゃなくて、道具の側面に開き直ってるっていうか。「開き直り」がマジで嫌だ。

んで、この「開き直り」をしていらっしゃる方が、ウェブ小説書きさん方々にめっちゃくちゃ、めっちゃくちゃ多いような気がして。
んで、昨日、めっちゃ評価されている小説があったから読んでみたら、マジで、ほんときっつい。
僕基本、男性嫌悪を抱えているんですけど(事態は割と深刻で、自分が「男」であることにすら嫌悪を抱いていて、自己嫌悪が常にある)、その小説はそういう雰囲気なことをテーマにしながら、めちゃくちゃ、めちゃくちゃ書き手が〈男性(ここでの〈男性〉は女性も含む。いわゆる、女を搾取する男の意味)〉でさあ、いやマジで、あり得んでしょ、完全に地雷だったし、そのタイトルのワード速攻でミュートワードにした。

僕は思想においてもフェミニズムとかジェンダー論とか普段から凄く共感していて、そういうのをテーマにした小説とかほんと救われるというか(一方で自分自身の男性性の暴露に悶絶することもある)、だからそういう小説に一定の期待感を持っちゃってて。
そういう状況での、まあ今回のあの小説だったから、マジできつかった。そんでもってあれが称賛されている流れもやばかった。違うでしょ。あんな余裕のある運動じゃないんだって。余裕のある「説教」じゃ――絶対ない。

そう、「説教」になっちゃうんだよね。自分が知っていることを誰かに話す――その「話す」が目的として前景化し過ぎちゃうとだんだん「教える」って意識が芽生えてきちゃって。「「フェミニズム」とはこういうものなんだよ」って感じで、運動を「」で括っちゃう。
この「運動を「」で括っちゃう」ということそのものが、本来ならフェミニズムが戦うべき現象のはずなのに。例えば、ちょっと声を上げれば「ツイフェミ」って言われたりとか、「○○主義者」って名前をつけられたりとか、そういう現象に。
なのに、「教える」って意識が強くなった人は、「フェミニズム」と自らを「」にいれてしまう(あの小説の場合は「書き手」がフェミニズム実践者たちを「」に入れたので、更に性質が悪い)。もうね、それが嫌で。で、そのことに無自覚なのに「みんなに読んでくれ、俺の小説を……!」とか呟いちゃってんのがマジで痛々しい。

こういうことがあるから、フェミニズムはどんどん誤解されちゃうわけで。本当、正直辛いよね……。あれはマジで酷い事件だった。

で、本題に戻ると、実は僕もこの「説教」とか「教える」とかといった意識が前面に出ちゃった作品を、先日書いてしまいましてね……。
言ってみれば、「人のことを言えない」ってやつなんですけど。だからちょっと最近スランプに落ち気味で(笑)

どうしたらいいかってことなんだけれど、やっぱりタイトル通り「何かを伝えるために書きたい」って意識をできるだけやめようとすることが大事なのかなって個人的に思って。
繰り返すと、「何かを伝えたいがために書かれた小説」にも、素晴らしい小説はたくさんある。し、僕はそれを肯定する。でも、それは「小説としての芸術性」があってこそだと思う。具体的には、「切羽詰まっているか」とか「小説そのものの技術が高い」とか。

僕には、その二つはない。全然切羽詰まってないし、小説は下手くそ。そんな自分が「小説」を利用して、何かを伝えようだなんて、百万年早いっていうか。
だから僕みたいな人間が何かを書くときには、「何かを伝えるために書く」みたいな意識をできる限り後ろにやって書く、みたいなことが大切になるのかなあって思う。

後ろにやって書く――とは何か。それは多分「言葉」そのもの(つまり、小説を形作る「素材」そのもの)に目を向けることなんじゃないかって。
「言葉で何ができるか」から「言葉は何ができるか」に移行する。「言葉」そのもので遊ぶ。楽しいやら辛いやら、美しいやらしんどいやらを「言葉」表現する。
僕自身も言葉に隷属することになると思う。なんでって、僕は「僕」でしかないから。僕は言葉なのだ。言葉の遊覧飛行。キーボード上のダンス。
もちろん、「言葉」に隷属しっぱなしもよくない。それも「言葉」が教えてくれると思う――その話はまた次の日にしよう。

とにかく何が言いたいって、ほんと、昨日はひどい小説を読んだわ。あんな小説が、「フェミニズム」を真に語っている小説だなんて思われることのないように――星に願おうと思う。

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