もんてすキュッと⑬
電車の中には、人っ子一人いなかった。車掌が、たびたび微笑ましい顔をバックミラー越しに向けてくるのは、多分、私たちを希少モンスターかなんかのように思っているからなんだろう。よく見れば、彼の左手にはレバーではなく、PSPヴィータが握られていた。彼はハンターだった。多分名前は、もっさん♂。全身をリオレウス装備で固めている。炎耐性はばっちりだ。だから、私は試しに、火炎放射器を構えてみた。
「撃つぞ!」
「おやおや」もっさん♂はこちらを振り向きもせずに、アナウンスした。「そんなおもちゃで、何ができると言うのかね」
「おもちゃなんかじゃ……おもちゃだわ」それは、マクドナルドでさっき買ったハッピーセットの商品だった。
「ミレイ! 君、私を待たせておいて、マックにも行ったの!?」サリは大声を出して発狂した。
「朝マックだけど」私は答えた。何を?
「たしかに、朝マックだね」サリは現状を肯定した。私はリオレウスもっさん♂に視線を戻した。
「この子たちがどうなってもいいのか!」
「危ないのでお座りください」車掌が、真っ当なことを口にした。私は大人しく座った。
実は、江ノ島は昨今では、人気の路線の一つである。鎌倉は言うまでもなく、由比ガ浜、長谷寺、稲村ケ崎、七里ガ浜、江ノ島――と、観光スポットが目白押しなのである。
それに――おいしいお店もたくさんあった。私の激推しは、「珊瑚礁」というカレー屋さんである。一皿1500円周辺と、少々値段が張るのだが、野菜たっぷりの甘めのルーにオリジナルドレッシングで和えたキャベツ、柔らかくなるまでじっくり煮込んだビーフ肉を贅沢に味わえる逸品で、それを、湘南の、美しい海を一望しながら楽しめるという、まさに、ゴージャス、ゴージャス&ゴージャスなレストランである。もちろん混んでいる! 湘南の海沿いにはそういった名店がゴロゴロしていたのだ。――つまり、今日、江ノ電がこんなに空いているのには、理由があった。
「そういえば、今日って木曜日だよね……」サリがぽつんと呟いた。「普通に学校サボってきたんだなあ……」
「学校って何かな?」田中さんはつり革を食べていた。世界に存在するものを田中さんが口にするのは、今日が初めてである。
「うーん、学校の本質かあ……考えたことなかったな」サリは真面目に考え始めた。この子はことごとく政治家に向いていない。
――キキーッ!
突然、急ブレーキがかけられた。なんだろう。私たちは外を見た。窓の外には、横断歩道を渡っている途中のおじいさんがいた。
「危ないね……」サリが、悲しそうな顔をする。チャンスだ!
「私の方が危ないわよ!」私は電車の中でダンスを踊り始めた。チャチャチャ――それはルンバとマンボのリズムを融合したメキシコのダンスだが――である。スマートフォンからチャチャチャのリズムが、田中さんの鼻からヴォーカルが飛び出し、車内は夢のような夢のメキシカンドリームを夢見るステージへとドリーミングインすることとなった。狂気が産婆を踊る。いや、サンバが新生児を取り出す。オギャーッ、産声を上げた赤ちゃんが、つり革を登り始めた。
「どうだ!」私はサリに向かって言った。サリは、スケジュール帳をとりだして、何かを丹念に記述していた。
「※このビデオは2019年の10月に撮影されています」
「そっか、一応言っておかないと自粛厨に叩かれちゃうもんね(注1)」田中さんはマスクを食べていた。多分カバンから取り出したのだろう。
「さて――座るか」私は、足を揃えてサリの隣に座った。
――電車は動き出した。この電車は珍しく、鎌倉駅周辺では、市内を走っている。つまり、路面電車だ。
いつか、新潟で免許合宿に行ったときに、「この黄色の信号は、今、田舎にしかないんじゃないか? だから実際お目にかかることはないぞ!」って言われたことがある。「黄色の信号」は、路面電車専用の信号のことだ。――鎌倉には、あるのだ。なるほど、新潟様は、鎌倉を田舎と呼んだのである! ふざけやがって、あいつら、米食ってばっかでしょ! 魚も美味しいし! 後なに、マイタケもよく取れるし、おまけに伝統工芸も盛んだし。すごくいいところじゃん! ――まったく、鎌倉舐めないでよね。ネームバリューの割に、本当に何もないんだから。
「早く、海が見たいわね……」私は呟いた。
「もうすぐ由比ガ浜じゃない?」サリは、辺りをきょろきょろ見回している。田中さんは、相変わらずつり革を食べていた。掴まるところがもうない。
――次は、由比ガ浜。由比ガ浜に止まります。お嬢さんたちは大人しく座っていてください。チャチャチャを踊らないように。
「はーい」私は答えた。「あなたの方こそ、モンスターハンターやらないでね」
「ちっ、ばれてたか……」リオレウスもっさん♂は舌打ちした。
扉が開くと、老人が三人乗ってきた。一人は男、二人が女である。男はボーっとしていて、女はぺちゃくちゃ喋っている。お互いがお互いの顔に唾を引っかけていた。酸性度が高いのか、唾が引っかかったところから、白い煙が発生していた。私は線香に火をつけて、煙に近づけて確かめてみた。ポンッ――と音を立てて燃えたので、恐らく水素だ。この女たちは――イオン化傾向の高い金属でできていたのだ。私は、鼻に線香を立てて、追悼した。
「私たちゃ、まだ死んでないよ!」あらみたまは叫んだ。
「うるさい、早く成仏して、私たちを見守れ!」
「やだね、地獄の淵で、貴様たちを手ぐすね引いて待っててやる」しかし――二つのあらみたまは成仏し、他界した。残されたのは、男一人である。
男は、昭和男由来の安いプライドを笠に着て、椅子に座ろうとしなかった。しかし――つり革がなかった。田中さんが全部食べていたのだ。仕方ないので、男は私たちの対面に位置する場所に座った。サリが――まじまじと男を見ている。あれ? 好きになったの?
「サリ――いくら遺産の相続狙いだからって、老人はないでしょ……」
「へ?」サリは慌ててこちらを見る。「何の話?」
「え、だって、さっき駅前で、恋人欲しいってずっと言ってたじゃん」
「は!? ――あ……あ?」
サリは頭を一掻きして、顎に手をやり何かを考え始めた。占星術師のポーズ……私はそう呼んでいた。学年一位の優秀な頭脳でもって、この世の混沌をきれいに整理整頓し、ラプラスの悪魔よろしく、未来を予知する準備を整えるのである。
サリはある言葉を思い出していた。
――え、サリ、恋人ができるのを願って待っていたんじゃなかったの?
「そっか、ミレイのあの言葉はそういう意味だったんだ……」サリは一人で納得した。「なるほど、――絶対に、クリスマスまでには彼氏をゲットしてやるんだから――か。フフフ、やるじゃん」
「どうしたのよ、サリ」
「いや、なんでもないよ。――ところで、あの男……」
「金持ってそうね」私は答えた。
「ん、じゃなくてさ、ほら、さっき横断歩道で電車が止まったじゃん。そんとき渡ってた人に見えない?」
「たしかに、言われてみれば」鎌倉駅の周辺で横断歩道をわたっていたおじいさんも、そういえば頭にフライパンを被っていた気がする。「あのおじいさんだわ。でも――」
「そう。あり得ないよね……もしそうだとすれば、あの人は、少なくとも時速百キロ以上で歩いてきたことになる」サリは、頭の中で計算式を構築していた。「そんなことは無理だよ」
「でも、あのフライパン、ティファールよ。ティファールは、焦げ付きにくいから、簡単にオムレツを作れる……」
「ね、田中さん、どう思う?」
しかし、田中さんは、今度は白いガードレールを食べ始めていた。その端っこは、服の襟から出ているから、多分背中から発生させたのだろう。――サリは諦めて、おじいさんに話しかけた。そんなに恋人にしたいのか?
「おじいさん、さっき鎌倉駅のそばを歩いてなかった?」
「ククク――お嬢さん。よく気がついたな。ばれてしまっては仕方がない。そうじゃ、ワシは、人造人間スパイダー28号なのじゃ!」
「おお……」サリはあからさまに面倒くさそうな顔をした。お見合いは破談である。残念だ――