もんてすキュッと⑱
暗闇に目が慣れてきて、上を見上げると、長谷観音が不気味な薄笑いを浮かべてこちらを見下ろしていた。薄明りから不気味に浮き出てきたその像は、全体が金色にあしらわれ、背中には炎か、風か、はたまた聖なる光か、技巧的な彫刻が織りなす複雑な曲線のハーモニクスが美しい類の何かを背負っていた。例えるなら、チキングリルを焼いた後のアルミホイルのような。――その男は、その傍らに立っていた。田中さんの手足を縛りあげたロープを手に持って。よく見れば、田中さんの食っていた木片は絵馬だ。「県立鎌倉高校に合格します!」と大きく書かれていた。
「俺が作家になったのはなあ――」男は唐突に喋り始めた。回想録だ。どうやら、作家は急に自語りを始める悪癖があるらしい。「あれは、一年前のことだ……」
「そんなこと言ってないで、早く田中さんを返してよ!」サリが食って掛かった。彼女は勇敢だった。――私も、何かしなきゃ。
「そうよ、せめてその服だけでも返して!」
「うるさぁい!」作者は怒鳴った。「黙れ! 作家はなあ、人から指図されるのが一番嫌いなんだ! 好きなように生きる。そうじゃなきゃ、創作は語れねえんだよ!」
「だからって、「#物書きさんと繋がりたい」はないでしょ! なんだよ、「繋がりたい」って。「繋がらせていただけませんか?」って書け! 他人に欲望を押し付けるな!」サリは正論を言い過ぎた。作者は逆上した。
「じゃあ、お前らだって、そうだろうがよ! 友達が欲しい、友達になりたい、友達ってどうやったら作れるんだろう!! 人はなァ、友達を欲しがるくせに、実際に「友達になってくれない?」って聞ける人は、いないんだ。恥ずかしくってなあ! 恥なんだよ。関係をお願いするのは。恥ずかしいことなんだと! なァ、そう思わないか?」
「……言ったよ」サリがボソッと言った。私は慌てて、サリの方を振り向いた。彼女は、目から涙をこぼしていた。「言ったよ! でも、違うでしょ? 友達なんてのは。私が言いたいのはね、作家は、黙って読者と繋がってろってことだよ! いい作品書いて、読者を増やせ、バカ!」
「……あれは、一年前のことだ――」作者は唐突に自語りを始めた。「物理の授業を受けていたときのことだ。ほら、「物の三態」って言葉あるだろ? 誰でも知ってる、固体、液体、気体。温度によって、ほとんどの物質は、この三態を行き来して存在している」
「なんか急にうんちくが始まったわね……」しかし、作者は、耳を塞いで、意図的に私の言葉を無視した。サリは、スケジュール帳を取りだして、めくり始めた。作者は自語りを続ける。
「で、俺は悟ったんだ。この世のすべてのものは、みな、この三態を内在しつつ存在しているんじゃないかと。〈行き来〉じゃない。〈内在〉だ。例えば、「水」は常に、「氷」と「水蒸気」を伴っている。逆に言えば、「氷らない水」はないともいえる。じゃあ、われわれは?」
――難しい話になってきた。私は、長谷観音を見上げた。依然として観音は、薄笑いを浮かべてこちらを見ている。いや、本当に見ているのか? 観音は、ただの木だ。木が見る? いやしかし、見ている気もする。でも、明らかに見ているのは私ではない……。
「ここに、「りんご」があるだろう。りんごも、三態が伴っている。食べて、旨いりんご。シャリシャリした、俺らがよく知ってるりんごだ。じゃあ、後の二つは? 一方は、「りんご」という記号そのものだ。言葉と言ってもいい。「りんご」という言葉自体は、おいしくも甘くもない」
「――ラカンだね」サリは暗号を呟いた。私は、男からリンゴを奪って、食べた。歯で皮を突き破ると、プツン――と音を立てて広がり、みずみずしい果汁が口の中に染み渡った。おいしい。
「ハハハハ、さすがサリだ。んで、もう一個だが――」
「私たちは、どうして「りんご」という記号を”読める”のかって話だよね」そう話すサリの横顔は、スポンジボブのような奇天烈な様相を呈していた。「私たちが、「り」「ん」「ご」と読めるのは、「りんご」の記号には見出せないようなハードウェア――私たちの〈読〉そのものを成り立たせる諸原則――真の現実、いや現実界――が必要になるはずだもん。だから、りんごには、甘いりんご(想像界)、「りんご」(象徴界)、「・・・」(現実界)の三界が常に交差している。ラカンは、そう言ったわ――」
「さすがはサリだ!」
私は、長谷観音へ近づき、膝にのぼった。後ろを見れば、男とサリが、難しいことを延々と話している。あんたらはことばのジュークボックスか! 少しは人に分かるように喋れ! ――私は毛ほども興味ないので、田中さんが縛られて動けなくなっている場所へ向かった。田中さんは、新しい絵馬を食べていた。そこには、”祖母が元気になりますように”と小さく書かれていた。
「――俺は、象徴界、つまり記号の楽園へ、アクセスできるキーを手に入れたんだ」
「なんだって!?」サリは、スポンジボブさながら、目を丸く開いて驚いた。「長谷寺の作者ってそういう?」
「ほうら、田中さん。新しい絵馬だよ」
「ムシャ、バキボリ、ベキョ、ワァ――ミレイちゃん、ありがとう! 元気百倍、タナパンマン!」
フゥッ――私は田中さんの元気な姿を息をついた。これでワンピースは無事だ。辺りを見回してみると、私はちょうど今、作者の後ろ側に回った位置にいた。サリが、興奮した顔で何かを喋っていた。作者は、唾を飛ばしながら、思い出話に浸っている。なんかおもしろいことないかなあ。私は、スマートフォンを開いて、自分の名前でグーグルを検索した。AV女優が出てきた。――許せん。私はマニフェストに、AV女優は全員マュュモボゲブと名乗ること――という文言を追加するために、メモアプリを開いた。――ピンときた。そうか、その手があったか!
「――人は、困難にぶつかったとき、目の前で起こったことと、目の前で描写されたこと、つまり実物と言葉――どっちを信じるかと言えば、驚くなかれ、言葉の方を信じるんだ。なぜだか分かるか? サリ」
「……言葉の方が分かりやすいからだね」
「そうだ! われわれは本来、実物としか関われないはずなのに、信じるのは言葉なんだ! バカだろ! だから、俺は、長谷寺を創作した。この小説を読んで、実際に長谷寺に行こうとする奴なんて、絶対に、絶対にいないだろ? だから、適当なことを書いたってバレないんだよ!」
「違う!」サリは叫んだ。「違うよ、それは。確かに少ないかもしんないけど、それでも、誰かは絶対に行くんだよ!」
私は、長谷観音を登り始めた。ちょうど、洋服に無数に刻まれたしわが、足を掛けられるようになっていて、簡単に登れた。今度は、胸の位置に固定された左腕に座ってみた。なかなか座り心地が良い。少々グラついていたが、何かの金属でできていたようで、折れる気配もなかった。しかし――これじゃあ、まだ低い。私は腕の上に立ち上がると、更に昇った。
「――だからな、俺はこの世に復讐しようと思ったんだ。言葉ばかり信用して、現実を見ようとしない貴様らに。だから……田中さんを誘拐した。田中さんが、復讐には最適だったからだ。――まあ、こんなに早く見つかったのは予想外だったがな」
「……田中さんを、返して」サリは、言った。「田中さんは、私たちの、大切な旅友達なんだから!」
バリリィ、ムシャ、ボリ、ムュォモゲブリュゥ――田中さんは、絵馬を食べていた。”友達と仲良くできますように”とかわいらしい文字で書かれた絵馬だった。
私は、ようやく長谷観音を登り終えた。肩の上に立って、見渡す限り、暗闇だったが見晴らしが良い。木の腐ったような香りが、天井近くに充満していた。私は、大きく息を吸い込んだ。この観音堂と――私が一体になったような感覚がした。――私は叫んだ。
「何を隠そう! 私が――」私の声は、堂内に響き、反射し、こだました。金属の観音像が揺れて、私の足先へと振動を伝えた。骨が、芯から震える気がする。――再び、私は思いっきり息を吸い、放出した。「私が、この小説の作者だ!!」
私が、この小説の作者だ!!
「――は?」サリと作者は、同時に首を傾げた。――瞬間、バンッ――と音が鳴り、観音堂の扉という扉が開く音がした。光が差し込み、堂内を明るく照らし出した。刹那、私の目の前に、蝙蝠が十匹ほど止まっていたのを発見した。流石の私も、驚きで、キャァ――とヒステリック女子に典型的な叫びを演出することを避けられず、肩から足を滑らせてしまった。約十メートルほどの高さ。これは死んだ――と思ったら、柔らかい物体に全身が包まれて、助かった。見れば――田中さんだった。田中さんが、私を助けてくれたのだ。あれ? ロープは? 私が第一声口にすると、田中さんはボソッと言った。
「――私が作者なんだよ」
「え?」
その瞬間――瞬間が多すぎて困るのだが――堂内に人が大量に入ってきた。中年のサラリーマンのおっさん、財布を盗られた主婦、各回で同級生を野球に誘い続ける少年、下着を丸出しにして走る小学三年生、猫、イクラ、タラ、悲しみを背負ってバイクで走り続ける三河屋の尾崎豊などなど。彼らは一様に叫んでいた。俺が作者だ! ――作者! 作者とは――何か? 誰にも分からない。いや、分かっていても、誰も、分かりたくないから、分からないふりをしているに違いない。
――”本当の”友達なんてものはないよ。
ふと私は、サリの言葉を思い出していた。”本当の”友達なんてない。”本当の”――
見れば、先ほど堂内に侵入してきた作者たちが、田中さんをさらった作者を蹴り飛ばしていた。作者はツイッターアイコンのように丸くなって、蹴られることに甘んじていた。そして、動かなくなった。彼は――死んだ。いや――エタったと言っておこう。私が、作者なのだ。
「ミレイ、田中さん、大丈夫?」と、サリが駆け寄ってきた。
「サリこそ、頭大丈夫?」私は親切に聞き返した。サリは、無言で私の頭を叩いた。田中さんはデザートに、長谷観音を食べ始めていた。
「気づいたんだけどね……」サリは、神妙な顔をして、言う。「多分これ、ミレイのお母さんの仕業だよ……」
「え!? 私にお母さんなんていたの!?」
「たしかに――じゃなくて。あの〈作者〉、言ってたんだよね、はっきりと。「無意識の構造は、言語に似ている」って」
「え? なに、わかんない、は?」ムカついたので、私は絵馬に”サリが幸せになりますように”と書いて、田中さんにあげた。田中さんは喜んで食べた。
「――簡単に言えば、〈科学〉が敵ってこと。〈こども科学博物館〉の信奉者だったんだよ」
「そうか……とりあえず、次の駅に向かわない?」
私たちは観音堂を出た。青空が澄み渡って、どこまでも続いていた。遠くには、相模湾に広がる青い海が、ザパーンと音を立てている。――午前十一時。旅は、全行程の十四分の一に差し掛かっていた。偶然、サリがスマートフォンを取りだし、偶然自撮り棒を装着、偶然私たちの肩をひっぱって、偶然、観音堂を背景に、三人のスリーショットを、偶然撮影した。