もんてすキュッと⑯

 私は、小さい頃から、友達というものを必要としてこなかった。両親が三歳の頃蒸発してから、私は祖母の元で育ったのだが、祖母は生粋の忍者で、私が「友達って何なの?」聞けば、マキャヴェッリの『君主論』を手渡すのみだったので、「自分のために役に立つ人間」という意味での〈友達〉は知っていても、”本当の”友達は知らなかった。
 ”本当の”友達――それは、私が小学生になって初めて会話した人間、サリの言葉だった。サリとは、小学校三年生のときに初めて同級生になったのだが、彼女は一言「友達にならない?」と言ってきたのだった。そのときの私は、彼女の言う「友達」を、〈友達〉と勘違いしていたから、即座に「いいよ」って答えた。すると、彼女は「やったあ!」と言って海老ぞりジャンプし、その着地の瞬間にそばに落ちていたマグロの刺身が、誰かのランドセルの中に入り込んだ。次の日、その子のランドセルは青かびでびっしり覆い尽くされたのを見て、私が「アハハハ」と大声で笑ったんだけど、そのとき、サリが「友達なら、笑っちゃダメだよ」と言ってきた。
「なんで?」私は聞いた。サリが怒ったように、説教をする。
「だって、青かびって落とすの大変なんだよ。友達の不幸を笑っちゃダメ」
「どういうこと? 大変だと思うから、笑うのよ。笑えば――すごくスッキリするわ。それが友達ってものじゃないの?」
「そんなの友達じゃないよ!」サリは、大声で叫んだ。「そんなの……そんなの、絶対に友達じゃない。ミレイ、おかしいよ! 本当の友達はもっとこう……こう……」というと、サリは泣き出してしまった。途端に、クラスの人たちがサリのところへ集まって、「大丈夫?」と声をかけ始めた。サリは――更に泣いた。私は、更に笑った。アハハハハ。おかしいわ。滑稽だった。だって――その子のランドセルを青かびにした張本人は、なんて言ったってサリだったんだから。
 でも――サリの、「本当の友達」という言葉は、しばらく私の心に刺さったままだった。思えば、サリは、あれ以来「本当の」という言葉を使わなくなった。それに――人前で泣くことも。彼女は、それから私にたびたび話しかけては、笑ったり、喜んだり、絶望したり、怒ったり――でも、決して泣かなかった。それに、今思えば、あの日から急に、サリの学力は――

「――ミレイ!」サリが、遠くで手を振っていた。「こっちだよ、ミレイ! ってきゃあ!」
 サリは、大きくサイドステップした。サリが立っていた場所に目を向けると、寺の石畳から、緑色の何か藻のような物体が、じわじわと生え始めていた。よく見れば、そこらじゅうの岩に、巻き貝――あれはタニシか? ――が、びっしりとついていた。足を持ち上げれば、私の持ち前の動体視力で数えたところの千二十一匹のタニシがぐしゃりと体液を滲ませて、潰れていた。私はその場で明太子を吐いた。
「オボロジャア――アア、これ、ご飯にかけたらおいしそう」
「ミレイ! 大丈夫!? 今行くから!」
 そう言って、サリはアレグロのテンポで、タタタタとタニシを駆け抜け、私の前に現れ、明太子を踏んだ。グシャァと音を立てて明太子の卵が飛び散り、無数の卵が無数のタニシに受精し、鮮やかな緑色の新芽が芽吹いた。新芽は、瞬く間に成長し、大きな蕾を膨らませ、一斉にこちらを向いた。プクゥという音が聞こえてきそうなほど、それはがくをミチミチと圧迫していた。――瞬間、クラッカーが爆発したような音が鳴ったかと思うと、一斉に花が開いた。白い――グロテスクなめしべと芋虫のようなおしべを持った――百合だ。百合が、一斉に生まれたのだった。辺りは、腐ったバナナのような臭いに覆い尽くされ、私はまた明太子を吐いてしまった。サリは、二度同じ失態を繰り返すまいと、今度は明太子を蹴って、池の中に入れた、これが間違いだった――今度は巨大な地球儀のような茶色いやつが池から現れたかと思うと、北極の方から亀裂が入り、周囲のハエがたかり始めた。あれは、ラフレシアだ。やばい――と思って逃げようと一歩踏み出した瞬間、バリリィという音が鳴り、タニシが五百七十五匹死んだ。明太子を吐くまいと踏みとどまっていると、ラフレシアは、錆びた蝶番がこすれるような音を立てて開いた。隙間から、六年間苦行を続け風呂に入らなかったブッダのような香りが充満し始めた。サリは、急いで自分と、あと私の鼻をつまんだ。私は思い切りくしゃみをした。唾が、サリの手のひらにかかる――しかし、サリは手を離さなかった。そして、もう一方の手で手首を掴んで引っ張る。逃げよう――というメッセージだということはすぐに分かった。――私たちは急いで階段を登った。ジャリリ、ジャリリ。タニシが十万三百二十匹死んだ。
 長谷寺は、本当にきれいだった。メインの、ツワブキやキクに加え、コスモスなどの秋の小さな花が、そこかしこに生えていた。加えて、普段から庭はきちんと整えられていて、日本庭園らしい、慎ましくも風情のある庭造りであって、ゆっくり見れば――ゆっくり見れば心が安らぐのだった。特に、階段を登るときには、本来振り返ってみれば、木の隙間から、鎌倉のきれいな街並みや、遠くに広がる湘南の海の眺めが、美しく広がっている。しかし――今はそんな余裕はなかった。百合やラフレシアの臭気が、階下のすぐ下から忍び寄ってきていたからだ。次第に、タニシの数は減っていた。今は、一歩毎二百十二匹。さっきのおよそ半分。後もう少し登れば、タニシから逃れられる。
「クッソ、ゼェゼェ――オェェ、ほんと、きっつい、走るの……」
「ミレイ、あと少しだから頑張って!」
 私は既に満身創痍だった。この世に、全力疾走する政治家がいるか? 前、パフォーマンスで、町内をマラソンした候補人がいたけれど、結局川に落ちて死んだって聞いた。まさか――私も死ぬのだろうか? 階段で、タニシに足を滑らせて――失脚。ププッ(笑)足を滑らせて失脚って(笑)おもしろいわね!
「オゲゲギャハギョホ」私は笑った――のか?
「ミレイ、走りながら笑うと、舌噛むよ。んんー、ま、噛んだ方がいいか」
「どういうこと?」
「――なんでもない。早く行くよ!」
 ふと、サリが黒幕なのではないか――という思考が頭をよぎった。この事件の黒幕。全ての――元凶。今私が死にそうになりながら走っているのは、サリが仕組んだことで、きっと私に対して何か恨みをもってて――それで、階段を登りきったら、その瞬間に突き落とす――みたいな。ん、でも、サリが私に対して抱く恨みってなんだ? 今まで酷いことなんかしたっけ? ――思いつかない。むしろ、感謝すべきだと思う。サリは、私に感謝すべきだと思う!
 ジャリリ――今は一歩毎三十四匹。もうすぐで、最上階だ。サリの攻撃に、そろそろ準備しておかなくてはならない。呼吸を整え、前を余裕そうに走っているサリの背中を見つめた。サリは――汗をかいていた。なるほど、タイミングを伺っていて、彼女は緊張しているのだ。だから――畜生! サリは、私に感謝すべきだと思う! しかし――彼女は私をどういうわけか恨んでいるのだ。
「アアアアアアアアア!」私は叫びながら、力を振り絞って階段を登った。今は一歩毎五匹。もう、最上階は手前だった。どうにかして、どうにかしてサリを追い抜いて、先に階段を登り切らねばならない。しかし――私がスピードを上げると、サリも、それに合わせてスピードを上げた。クッソ、そうか、サリは学年一位だった。運動神経も抜群だ! 家の中に引きこもって、ずっとPS4でトロピコをやっている自分とは違う!
 私は無我夢中で走った。一歩毎三匹。太ももが痛んだ。二匹。肺が悲鳴を上げていた。一匹、手足が痺れてきた。そして――
「ついたああああ!」サリは叫んだ。負けた。サリが先に最上階に着いた。そこには――タニシは一匹もいなかった。私は気絶寸前の頭をどうにか持ち上げ、彼女を見た。彼女は、腕を挙げて喜んだあと、ターンを決めてこちらを振り向いた。――くる。突き落とす前に、絶対に避けてみせる!
「おりゃああああ!」私は左足を広げて再度ステップを広げようとした。しかし、思ったより筋肉に対する負荷が大きく、失敗に終わった。私は生まれたての小鹿のような姿勢で、倒れ込んだ。終わった。私はこれから突き落とされる。サリがこちらへ飛んでくる。ああ、短い人生だったわ。
 ――が、サリは予想外の行動をとった。
「ミレイ!」彼女は私の身体を抱きすくめた。「大丈夫!?」
「――え?」
「やっぱり……ちょっとペース速かったんじゃない!? 少し休もう?」
「サリ……」私は声を振り絞って聞いた。「私たちは”本当の”友達なのかしら……」
 しかし、サリは、私を見つめたまま、少しの間黙っていた。何かを考えているようだった。多分、今晩のおかずはカレーなのだろう。彼女は、そこで使う具の種類のことを考えていたのだ。
「”本当の”友達なんてものは――」サリが口を開く。「”本当の”友達なんてものはないよ。もし仮に、私たちが”本当の”友達同士なら――今頃、私はミレイをこの階段から突き落としてるかも」
「そうか……ジャガイモだね……」私は安心して、カレーの具を伝えた。
「うん?」しかし、伝わらなかった。「やっぱり休もうか」
 サリはそう言うと、私をひょいと両手で抱きかかえて、お姫様抱っこを試みた。サリの腕は、なるほど筋肉質だった。ちょうど、鉄格子で出来たベッドの上に寝っ転がったみたいに硬い。それを伝えると、サリは急に走りだして、私の身体をベンチの上に投げた。ベンチは――ボキリと音を立てて、折れてしまった。

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