もんてすキュッと⑪

 ――トゥテトゥチェツテテン。トゥテトゥチェツテテン。トゥテトゥチェツテテン。
「ウエエエエエ……」
 トゥテトゥチェツテテン。
「もぇえ、むじゅおぅ……?」
「むにゃぺ、みもぅゅ」トゥテトゥチェツテテン。「もぉぉよ」
トゥテトゥチェツ「うむぅ……」
「やっと電話繋がったか……ミレイ? 今どこ?」あじゃぺ……。
「うぎょぉ?」
「ハァ――そっか。私がバカだったよ。そうだよね。まあ、時間通りに来るわけないか」はなげェ、はなげェ。
「うべぽん……サリちゃん?」
「田中さんも寝坊助だったのね……これは予想外だなあ。まあ、いいや。駅の喫茶店で待ってるから。早く来て」ブチッ。
……。
……。
「……あ、旅」私は、出来事を把握した。
「ねえ、田中さん、起きて。寝坊してるわ、私たち」ようやく自我を取り戻したので、私は田中さんをゆすった。
「むにゃにゃ……ろおすとびい……ふ!?」田中さんは寝ぼけ眼で、上体を突然起こした。起きたのだろうか。いや――その顔はまだ、虚空を見つめたままだった。
「ろおすとびい……ふ!?」田中さんの耳の穴からローストビーフが絞り出された。彼女はそれを手で握りつぶし、鼻にこすりつける。――だめだこいつは。
「ちゃんと食べてくれ」
 私は、ダブルベッドの上でぐしゃぐしゃになった掛け布団をきれいにたたんだ。きれいにたたまないと、次、祭壇を作るときに困るからだ。
 掛け布団の上にくるまっていた田中さんは、私が布団を持ち上げたときに床に転げ落ちた。しかし、彼女は落ちたことにも気づかずに、ローストビーフを鼻にこすり続けている。いったいどうやったらこいつは起きるのだろう。対処法が分からなかったので、後で国会に法案を提出しておこう。――今は目下、私の出発の準備だ。
 階段を降りると、〈子ども科学博物館〉の軍隊との戦闘から帰ってきた祖母が、キッチンで世話を焼いていた。彼女の鼻に、絆創膏が貼られていた。私は声をかけた。
「祖母! おはよう。どうしたのその傷」
「ああ、これかい? あんまり相手が弱いから、かわいそうだと思って、「傷を受けましたよ」ってポージングを取ろうと思ってね。したら、敵さんも「あのババアに傷を負わせたぞ」って喜んでたから、嬉しくってねえ」
「興味なさ過ぎたわ。世話は焼けた?」
「ああ、そこにあるわ。テーブルの上」
 祖母に促されて見ると、そこには預金通帳が転がっていた。手に取って開くと、そこには百万円と記載されていた。やるな、祖母。彼女は、一割主義の信奉者(アメリカ合衆国発の秘密結社のイデオロギー)だから、きっとこの百万円も一割に違いない。つまり、昨晩は一千万円を盗んできたのだ。
 しかし、やつらの総資産は百億円を超えるから、まだまだ先は長い。
「じゃあ、これはもらっていくわね」
「ミレイも、気をつけなさいよ。どこに〈科学〉が潜んでいるか、分からないんだからねえ」祖母は、優しい声で言った。ちょっと心が落ち着いてしまう。クソ。なぜだ……
「よ、余計なお世話よ! ……じゃ、出かけの準備してくる」

 朝シャワーを浴びて、着替えていると、田中さんがのっそりとした足取りで一階に降りてきた。彼女は、全身脂まみれになっていた。多分、ローストビーフを食べるのに四苦八苦したに違いない。私は、彼女をシャワー室にぶち込んで、三十七度のお湯を三分間かけ続けた。ぬるいお湯は、ちょうど油分と溶け合って乳化するので、ローストビーフの脂を身体からこそげ落とすにはちょうどいいのだ。田中さんは、たびたびシャワーの水を飲んだ。
 田中さんが顔を洗っている間、私は化粧に勤しんだ。化粧水で顔全体の潤いを整え、ファンデーションで下地を丁寧に伸ばしていく。今日は、日光が強めだから、日焼け止め成分が配合されてるやつを使った。眉毛は、濃い目のブラウンのリキッドライナーを使い、一本一本丁寧に書きこんでいく。で、今日はちょっと遠出だから、目のラインにアイライナーを丁寧に載せる。まつ毛をビューラーでちょっと持ち上げたら、マスカラでボリュームアップ! チークは……まあ、いっか。
 化粧の出来を見ていると、田中さんがシャワー室から出てきた。彼女は、全身をバスタオルで大雑把に拭くと、「うん、いい感じ」と言って、全身を巻いて、ドライヤーで髪を乾かし始めた。縮れた昆布が、徐々にふわふわのワカメへと変貌していく。茶髪ミディアムパーマの髪はやはり――美少女であった。
「ミレイちゃん、洋服、借りていい?」
「えっ、いいけど……」
 田中さんは、あれだけよく食べてんのに、チキショウめが、身体のサイズは私とほぼ同じである。彼女は、ドット柄のワンピースを選ぶと、バサッと上から被った。
「下着は――途中で買わなきゃね……」田中さんはとんでもないことをぼやいた。
「ちょっと……え? その下着は?」
「昨日の」
「なるほど……」
 まあ、こっちには百万円ある。なんとかなるだろう。
「私は準備できたよ。ミレイちゃんは?」
「え、待って、化粧とかしなくていいの?」田中さんは、今のところすっぴんである。
「え――いつもやってないけど……」
「そうか……」くそ。これだから美少女は。くそ。美少女め。むしゃり――むしゃり――気づけば田中さんは大根を食べ始めていた。
 ――トゥテトゥチェツテテン。トゥテトゥチェツテテ
「ピ」
「ピ? どういうこと?」
「え?」私は首を傾げた。
「――って、遅いのよ! 今何してんの!」電話口で、何かがキレていた。その声は、田中さんにも聞こえていたようで、彼女は慌てて私の手からスマートフォンを奪った。
「サ、サリちゃんごめん! 今、ミレイちゃんが化粧してたところ!」サリだったか。――って今、この人、罪を私になすり付けた!? 私は慌ててスマートフォンを奪い返す。
「ミレイ! 遅れてんのに、なに悠長に化粧なんかしてんの!」
「すっぴんで神奈川県知事選挙に出馬するわけにはいかないでしょ」私は抗議した。
「まったく――田中さんにまで迷惑をかけて……ほら、早く来なさい! 直行!」
「いや、田中さんだって――」
 ブチッ。言い訳しようとしたら、電話は切れた。くそ――田中さんめ。どこまでも私の邪魔をしやがる。
「ね、ミレイちゃん、急ご?」田中さんは大根を食べていた。
「田中さん、あなたのマニフェストは何?」私は探りを入れた。
「マニフェスト!? え……え……えと、好き嫌いしない?」
 好き嫌いしない! なんて素敵なマニフェストなんだ! 選挙演説において、好き嫌いしないことは、無敵であることを意味する。嫌な人間とも付き合う。面倒くさい公務をこなす。えこひいきをしない。なんなんだ、田中さん、貴様、立派な政治家じゃないか!
 これは本当に……要注意だ……。
 トゥテトゥチェツテテン。トゥテトゥチェツ
「はい?」私は再び電話を取った。「なんか用?」
「早く来いっつってんだろ!!」ブチッ。二つの意味でキレた。
「何だったんだ今のは……」私は玄関で呆然とした。
「や、早く行こ?」
 手首を田中さんに掴まれ、引っ張られた。祖母が後ろから「いってらっしゃーい、世話を焼いて待っていますからね」という声が聞こえた。私はこれから、どこへ連れていかれるというのだろうか。分からない。分かりたくもない。たった一つ。確かなことがあるとすれば――
「空がきれいだ……」

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