カーペット・ラプソディ
カーペットの縫い目の隙間に、髪の毛が挟まっているのを咲は見た。昼間にもかかわらず、彼女は寝そべって、何することもなくただ目の前にあるものをじっと観察していたのだった。カーペットの隙間は生活臭の楽園である。灰色の小さな鉱物の砂粒や、洋服からほつれて落ちた毛玉、ポテトチップスの黄色い欠片やノリが、所狭しと挟まっている。ハァ――と咲はため息をついた。この前掃除機をかけたばかりなのに、なるほど、パニック物の映画で、主人公はどんな災害に直面しても生き残っている。今この場にいるカスたちは、このカーペットの上ではそれぞれが主人公なのだ。とすると、あの、下駄箱のそばに置いてある掃除機にはたくさんの同胞の死骸が詰まっているに違いない。咲は、それを恍惚な表情で見た。あの掃除機の所有者である私は、さしずめ大自然の脅威といったところか。ふふ、悪くないわね。私はカーペットの上では不条理ということになる。ある日突然訪れて、何の罪もない登場人物を片っ端から殺していく。よし、やろう。咲は膝をついて立ち上がった。薄手のパジャマがしわくちゃになって捲れ上がり、彼女の腹が露出していた。その腹に、赤いまだら模様が表面に刻み付けられていた。きっとカーペットの跡だろう。もう許せない。私の皮膚をこんなにしちゃって――と咲は奮起すると、大股歩きで掃除機を取りに行った。一歩踏み出すたびに、ゴムが切れてゆるゆるになったズボンがずり落ちる。むしゃくしゃして、彼女はズボンを両足から抜き取り、玄関のすぐ横にある、開けっぱなしのドアに向かって投げつけた。コントロールがそれて、ズボンは、すっかり冷えてしまっていた浴槽の水の中に入る。咲はそれを見て、大きく舌打ちをしたが、彼女の意識は目下、掃除機に向いていた。今こそ、今こそあいつらを吸わなければならない。彼女は再び腹を見た。赤いまだら模様は未だにくっきりついている。ボリボリと表面をかきむしると、今度は表面に白い細かな傷がついた。まるでそれは、幼稚園児がクレヨンで描いた落書きのようだった!
「うがあああああああああ!」
彼女は叫ぶと、乱暴に掃除機の取っ手を掴み、勢いよく持ち上げた。ハンドタイプのこの掃除機は軽々と持ち上がる。これは、この前男に買ってもらった高級品である。咲のひ弱な腕にもフィットするほど軽い。彼女はぶんぶんと掃除機を振り回し、カーペットの上に載った。プラグを強引にねじ込む。電源を入れると、それはファンの回る、大きな音が響いた。はっはっは、観念せよ。私が今、このカーペットの上に、ディジャスターを降臨させてやるからな。こい、ヒーローたち。その心、簡単にくじいてくれる!
咲は激怒した。かの邪知暴虐の王を隅々まで追いつめてくれる。咲にこのカーペットの事情など分からぬ。彼女は掃除機をカーペットに押し当て押し当て、何度も掃除機で吸った。表面が終わったと思ったら、今度はテーブルをずらして吸った。テーブルの足の付近には特にポテトチップスのカスが溜まっていた。髪の毛がスチールウールのようになっているのを見た。彼女は、掃除機に力を込めて――もっとも力を込めたって何も変わらないのだが――押し当てた。押し当てて吸って、彼女はカーペットを触って確認した。繊維に触れるとかすかにほこりが巻き起こり、白い砂粒がぴょんとノミのように飛び上がった。彼女はキレた。押し当てた。鬼の敵のように押し当てた。押し当てて、彼女はまたカーペットを触った。今度は、砂粒は飛ばなかった。が、しかし少し日が傾いたのだろう、窓から西日が差し込んだ。午後二時である。その光に照らし出された細かいほこりが、やはりカーペットから吹き上がった。まだいたか。彼女はまた掃除機を押し当てた。吸った。吸った。そして吸った。カーペットのその部分が、心なしか少し剥がれた感じがしてきたころ、彼女は掃除機を止めて、そこに手を振れた。やはり、その瞬間、西日の光の筋に無数のパーティクルが映り出た。まだか、まだなのか! 彼女は頭髪を掻き毟った。――と同時に、ある一点に気づいた。よく考えれば、このカーペット自体、繊維でできている。繊維を叩けば、繊維が飛ぶのは当たり前だ。そうか、私は果てしない戦いの輪舞曲を踊っていただけだったのか。考えてみれば、自然と人間の戦いは果てしなかったのだ。というのも、自然は相手を人間として見なすことをしない。自然にとって人間は、自分自身の一部でしかなかったのだ。自然の本質は自己嫌悪である。自然は自分自身を攻撃し、苛むことで自身を保っていたのだった。だから、自然はひたすら人間を攻撃し続ける。その営みは再現を知らないのだ。だから私は、このカーペットを吸い続けたのだろう。私はカーペットを撫でた。ごめんね、たくさん繊維を吸っちゃって。撫でるたび、西日のパーティクルは吹き出たが、咲はその様子を今度は慈しみの目で見つめた。彼女は深く深呼吸をする。かび臭さが鼻腔をくすぐった。人間の匂いだ、と咲は思った。彼女は再び横になる。彼女は仰向けになり、天井を眺めた。真っ白な天井に、ポツポツとシミができていた。人間のほくろだ。彼女は精一杯深呼吸をする。仰向けの深呼吸は、肩に力が入りにくいのでここちよい。おなか一杯に、人間の匂いをたくさんに吸い込んだ。いい感じにリラックスできた。今度は横になってみる。ちょうどマクロ接写でズームしたかのようにカーペットの繊維が目に飛び込んできた。先ほどのような、あからさまな粒子はもうそこにはなかった。でもきっと、目に見えないもっと小さな粒子は挟まっているのだろう。私は再び、慈しむようにカーペットを撫でた。ふふ、かわいいこたち。その小さな芽を、すくすくと育てておくれ――咲は目を細めると、その向こうに先ほどの髪の毛がまだ挟まっているのを見つけた。一人暮らしの部屋は不思議で、私専用の配置になっているために、無意識に寝転がると同じ場所に、同じ姿勢になってしまうのだろう――だから、同じ髪の毛を見つけてしまったに違いない。しかし、それ以上に不思議なのは、その短くない髪の毛が、掃除機のディジャスターを逃れたということだ。彼女は人差し指の爪でその髪の毛をほぐし、よれたところをつまんで抜き取った。なるほど、いささかの抵抗があったから、なにかしらの力が働いて挟まりこんだのだろう。もしかしたら、髪の毛に意思があった可能性もある。とりあえず、そういうわけで、掃除機で吸うことはできなかったのだ。だけど――これは誰の髪の毛だろう。しばらく、この部屋には誰も入れていないから、普通に考えれば私のだ。だけど、黒い。私の髪の毛は茶色である。厳密に言えば、キャラメルモカブラウンだった。二か月前に初めて染めたのだった。断じて大学デビューではない。ましてや、サークルデビューでもない。ただ、ちょっと気分転換に、自分の髪の毛をキャラメルモカブラウン色に染めたのだった。この色は、私の好きな色だった。キャラメルモカブラウンにしてみたかったのだ。私はしたいことをしただけだ。断じてデビューではない。でもちょっと――まあ――男たちの気を引いてもいいかなって。「それ何色?」って聞かれて、「キャラメルモカブラウン色」って答えて、「へー、オシャレだね」って。ちょっと言われてみたいなあとかなんとかかんとかおもわれてみてもいいかなあとかなんとかかんとか。まあ――そんなわけで私の髪色はキャラメルブラウン色なのだ。こんな黒色ではない――じゃあこの髪の毛は誰のだろう? でも、私の部屋に、ここ何年も入れていない。じゃあ、染める前の髪の毛かしら。だとしたら、ここに二か月間はまっていたのいうのか。そうなのか――そうね。わかったわ。じゃあ――彼女は髪の毛を口の中に入れた。しばらく、舌の上でその髪の毛を転がした。転がして丸めようとした。したけど、髪の毛はまた元の一本の形に戻った。まるで髪の毛は形状記憶合金のように固い。髪の毛は針金だった――彼女はその上でしょうか出来ないことを知ると手のひらに吐き出した。髪の毛はよだれでべたべたになっていた。ハァ――彼女はため息をついた。
「ほら、ここでじっとしてなさい」
彼女はその髪の毛を元のカーペットの隙間に挟んだ。繊維の縫い付けられた部分の隙間に差し込む。形状記憶合金のように固いその髪の毛は、案外するりと経糸の部分に挟まった。またこれで、この髪の毛はずっとここに挟まったままだろう。彼女はほっと息をつく。
――ピンポーン。
そのとき、部屋にチャイムが響いた。咲は、宅配便だろうと思った。昨日アマゾンプライムで本を頼んだのだった。西洋哲学史の講義で使う教科書である。正直、欲しくもなかったけど、ないと困るし、でも定価で買うと今月のご飯の全てがもやしになってしまう危険性があったので、ちょうどアマゾンプライムで、一円で売っていたということを知り、興奮してワンボタンタップしたのだ。――咲は、はーいと返事をして立ち上がると、下半身に心もとなさを感じた。急いで下を向くと、自分が下着姿だったことを思い出した。カーペットの温かさに忘れていたらしい。ズボンはいつ脱いだんだっけ――あ、そういえば――彼女は部屋を飛び出し、扉を蹴って浴槽の中を覗いた。冷たい浴槽に、ズボンの死骸が漂っていた。やってしまった。これ以外に、このパジャマに似合うズボンはない。ましてや――部屋にあるのは、着心地の悪い――決して大学デビューで揃えたわけではない――スカートしかないのだ。唯一部屋着は、先日実家に置いてきてしまった。もう、これを着るしかないのだ。咲は死骸をつまみ上げた。びしょびしょに濡れた死骸は、無数の雫を滴り落としていた。悲しい、私がぞんざいな扱いをしたばっかりに。ごめんなさい。咲は唾を飲み込んだ。もう、乾かしている時間はない。咲は力いっぱいにそれを絞った。死骸は、その肉汁をぶじゅぶじゅと吹き出す。咲の腕や足に汁がほとばしった。急いで、死骸をばさばさと振り、皺を引き延ばす。しかし、皺は何回振ったって、完全に伸びることはなかった。咲は、それを両手に広げて、眺めた。完全に引き延ばされずに残っていたしわは、まるでムンクの叫びのように見えた。この死骸がまるで、私に何かを訴えかけているかのようだ、と彼女は思った。これ以上、このズボンをぞんざいに扱うわけにはいかない。彼女はやにわに、ズボンを履いた。ズボンが足にぴったりと張り付いて気持ち悪い。辛い。歩きにくい。――でも、私はこのズボンを履かねばならないのだ! ――咲は急いで風呂場を出た。これ以上配達員を待たせるわけにはいかなかったのだ。彼女は勢いよくドアを開く。
「すみません、お待たせしました」
「いえいえ、ここにサインをお願いします」
配達員の彼はそういって、咲に紙を手渡した。彼女は「石神」とサインを書き、それを返す。彼は笑顔で「あ、ありがとうございます!」と、お礼を言うと、本の入った封筒を手渡し、そそくさと帰っていった。咲は、元気な配達員だなあと首をかしげてドアを閉めた。
部屋に入ると、ふと壁に掛かった姿見に映った自分の全身の姿が映った。よく見れば、薄手のびしょびしょに濡れたズボンには桃色の下着が透けていた。西洋哲学は、人の本質を照らす鏡だと教授から聞いたことがある。彼女は今、その真実に天啓を得た。