アキレスと亀から考える表象批判!
こんな話を聞いたことがあるだろうか。
山田さんと遠藤くんが、かけっこをした。山田さんは、遠藤くんを舐め腐っていたので、
「ささ、遠藤くん、十メートルほど前へ言っていいわよ」
と、ハンディキャップを促したのだった。遠藤くんはムカついたので、
「いいよ。けど、お前はそのせいで、俺がどんなにゆっくり走っても絶対に追いつけない」と、挑発した。
「え? なんのこと?」しかし、山田さんが、その意味を理解するのは、かけっこが始まってすぐ後のことだった。
――ようい、ドン!
山田さんは、遠藤くんを走って追いかけた。案の定、彼は走るのが遅い。山田さんはすぐに追いついた――と思いきや。山田さんが遠藤くんのいた場所に着いたときは既に、遠藤くんは少し前にいた。「え? どういうこと?」と、山田さんは疑問に思いながらも、遠藤くんのいた場所に行くと、またしても――遠藤くんは前にいた。遠藤くんは言った。
「山田さんが、僕のところに来るまでに、少しだけど時間がかかるでしょ? その時間で、僕がちょっと前に出るだけで、僕は山田さんの前に出し抜けられるってわけ。だから、僕は一生君に追いつかれない」
「え、なんで……?」
山田さんは、疑問に感じながらも、追いかけ続けた。――が、遠藤くんは、その時間を使って無限に逃げ続けた……。
と、これは、御存じ「アキレスと亀」の変奏である。ゼノンという哲学者が提示したパラドックスの一つだ。
亀がいた地点をTと置いて、アキレスがそれを追うとする。アキレスが、Tに辿り着いたとき、亀は既に、T1地点にいる。アキレスが、T1地点に着いたとき、亀は既にT2地点にいる。というのも、どんなに速くても、「時間」がかかるからだ。――というわけで、アキレスは亀に無限に追いつけないというわけだ。
しかし、実際は、アキレスは亀を、簡単に追い抜くことができる。おかしい――これがパラドックスだというわけだ。
「君たちの立てている理論じゃ、アキレスは亀に追いつけないんだよね。おかしいじゃんか、アキレスが亀に勝てないなんて。どうなんだ? 君たちの理論、あまりに滑稽じゃない?」
滑稽――理論の脆弱性への指摘は、哲学者にとって、一番の屈辱なのだ。実際、「批判」というのは、こういう形で行われる。その人の理論に、とある「傾向性」もっといえば「偏見」を発掘して、その偏見が、あまりにも現状から程遠いものであるとき、その部分が間違っていることを指摘する――哲学者の場合、あわよくば対案を出す――というわけだ。
さて、そういう形で批判された哲学者たちは、この問題に千年以上かけるんだけれど、なかなかいい解決案が見いだせなかった。ゼノンやばすぎる。紀元前五百年の人だよ? 日本で言えば、弥生時代――農耕が始まったくらいの時代に、千数百年も悩ませる問題をいくつも提示したっていう、頭おかしい。
さて、後世の人は、このパラドックスをどう考えようとしたか。――実は、このパラドックス自体は、未だに解決できない難問であるが、しかし、この問題を端緒に、多くの魅力的な思想を、哲学者たちは生み出してきた。
その一つが――表象批判である。
表象批判は、フランス哲学をはじめとした、様々な哲学者が関わっている問題である。例えば、フーコーやドゥルーズは先陣を切って、批判に関わっているし、デリダや、ドイツのハイデガーも、その批判に遠からず関係するような理論を構築している。
そして――この人たちのような現代思想のビッグネームたちに、少なくない影響を与えたのが、アンリ・ベルクソンという哲学者である。彼は――「アキレスと亀」のパラドックスに、一定の解答を与えた哲学者だ。
この記事は入門なので、哲学用語はできるだけ使わず、ちょっと簡単に具体例を挙げながら説明したいと思う。例えば、「声が大きい」という表現について考えてみたい。
私たちは普段、鼓膜が痛いほどよく聞こえる声を、「声が大きい」と表現する。あまり聞こえなければ反対に、「声が小さい」ともいう。つまり、声が良く聞こえるか、聞こえないかを「大小」で表している。
しかし――考えてみれば、声には大きいも小さいもない。声は、波だからだ。空間に満たされた大気の粒が震えて、その振動が人間の鼓膜に伝わってそれを情報として受け取る。つまり、声に「実体」はない。
だから、大きいか小さいか、ということはないわけだ。というのも、「大きい/小さい」という述語は、その主語が、「一定の形を持っている」とか「量的に換算できる」という性質を持っているものにしか使えないからだ。愛にも大きさはないしね。平和にも大きさはない。形でも量でもなきゃ、比べることだってできないしね。
屁理屈じゃないか! 声にだって大きさはあるでしょ! 現に、ほら、デシベルだっけ、声を量的に換算して、比べてるじゃないか。
――さっきの、「大きい/小さい」という述語は、主語が量や形の性質を持っているものにしか使えない、という話には、続きがある。もし――量や形の性質を主語が持っていないであっても――主語が量や形の性質を持っていると仮定すれば、「大きい/小さい」という述語はなんにでも使える。
例えば、「愛が大きい」というとき、「愛」はもう既に、何か形を持った(ちょうどクッションのような――)概念であることを仮定されている。そういう仕方で「愛」が仮定されていると、逆に言えば、「愛は行為だ」みたいな命題がまったく受け付けられなくなる。「愛は大きい」と「愛は行為だ」という命題が、相反するように見えるのは、「大きい愛」が形・量的であるのに対して、「行為的な愛」がもっと抽象的に考えられているからだ。
つまり、主語は述語によって、その想定される性質が変わるというわけだ。
さて、じゃあ「愛が大きい」と言ったとき、さっき「のような」を太字にしたけれど、そう、つまりこれはメタファーなのだ。愛を、何かクッションのようなものだと、比喩で語っているのと同じだというわけである。
これは、同じように「声が大きい」でも言える。デシベルという単位は、声を「分割可能な」なにか(こんにゃくみたいな?)だと想定させ、それに対して、「大きい」だとか「小さい」だとかという形容詞をくっつけている――というわけだ。そもそも、これは分割可能なのか? 例えば(これはベルクソンも『時間と自由』で書いているが)、もし分割可能ならば、1+1=2みたいに、明子さんの声と、勝くんの声を足せる気がする。しかし、本当に足せるのか? 明確に、1+1=2といったように、計算できるしろものだろうか。明子さんと勝くんの声を混ぜたって、なんかこう、汚い何かしか生まれないんじゃないの――
そういうわけで、「大きい/小さい」という言葉は、主語を形・量化する。ベルクソンの言葉を借りれば、「空間化」する。
空間化するからこそ、それは分割可能になるし、比較衡量ができるようになるし、可視化される。実は、近代までの科学はそうやって発展してきた。「声」をデシベルで管理すれば、例えば騒音などの対策に有効だし、「愛」に大きさを与えれば、愛のわかりやすい表現が可能になる。脳科学で「愛」を測る技術が着々とできている。
しかし――ベルクソンが言うには――そうやって全てを空間化すると、取りこぼす何かがあるのではないか、というわけである。で、空間化してはいけないものがある――それが、「時間」だ。
「アキレスと亀」のパラドックスを、先に話したと思う。永遠に亀に追いつけない亀。さて、ベルクソンに言わせれば何が問題だったかというと、それは「時間を空間化してしまっている」のではないか――というわけだ。
つまり、時間を「分割可能なもの」と想定していることが問題なのだ。どういうことか。
先の話を思い出そう。
少し前の亀に追いつくために、アキレスは亀の場所に走るが、亀に場所に着いたとき、亀は少し前の地点に進んでいる。またアキレスはその地点に進むが、亀はまたその時間を使って少し前の地点に進む。これが無限に繰り返されて――アキレスは亀に追いつけない。
ここで、「時間」はどのように扱われているだろうか。一つは、時間が「絶対的なもの」として想定されているということである。簡単に言えば、英語のときに習ったあの線分図「過去/現在/未来」みたいなあの図。ほら、あれに点を打ったでしょ? 現在のところに、ぽつんと。――すると、アキレスと亀の「現在」の地点が「点」で打たれている。アキレスと亀が天としての現在を、共有しているという前提がそこにはあるのだ。
しかし「点」とは、まさに「時間」を「分割可能」と見なしていなければ打てない。――実際に、「今って何?」って解いてみると、現在というのは、常に過去に逃れていやしないか。現在進行形の行為はあっても、純に現在である行為は存在しない。簡単に言えば、現在は「点」ではないのだ。
――だから、ベルクソンは、「アキレスと亀」は、「時間を空間化」して語っているところに、パラドックスの原因があると考えた。ベルクソンはそのまま、「純粋持続」という概念を持ちだして、空間化されない時間の存在を考えたわけだが――それはまた別の話。
で、ベルクソンはそのまま思考を進めて、それは「表象」あるいは「イメージ」にも、同じような「時間の空間化」の作用が働いているということを指摘し、批判した。
さっきの「愛が大きい」ということを、「愛が何かクッションのようなものを想定している」と言ったが、それはすなわち、「愛」をクッションという「表象」で考えるということと同義だ。つまり――「空間化」には、ある種「表象」として考える傾向が備わっているということができる。「時間の空間化」も例えば、時間を「線」や「点」で”表す”といったように、表象を介在させている。だから――ベルクソンにとっては、「時間の空間化」を批判し、「純粋持続」を提案する以上、「表象批判」が不可欠だったのだ。そういうわけで、彼は「イマージュ(表象)」についての分析も語るわけだが――文字数がきつくなってきた。また別に機会に話します……!