もんてすキュッと⑰
「いったいわね……政治家の身体を何だと思っているのよ……」
「自業自得でしょ」
そう言うと、サリはプイと横を向いて、頬を膨らませた。私は、バキバキに折れたベンチを持っていた掃除機で吸いこみ、ごみ箱に捨てた後、スッと立ち上がった。目の前を見れば、高台に位置するこの長谷寺から、鎌倉市の眺めが一望できた。カラカラに乾いた秋の空に輝く海は殊更にきれいだった! さっきは――ラフレシアの臭気から逃げていて見る余裕がなかったけど。今は、ゆっくりと眺めていられる。
「ねえ」サリが指をさしながら、話しかけてきた。「あの、海に飛び出てる、あの公園みたいなのはなに?」
「ああ、あれわね、稲村ケ崎よ」私は脳内パンフレットを一枚ずつめくりながら答えた。「芝生の生え揃った、とても美しい公園で、ああやって崖の上にあるから、少し高いところから鎌倉の海を見渡すことができるわ。普段人は多いけれど、階段を登って、ちょっと奥まったところに行けば、ちょうどいい休憩所があって、そこに座れば、ここちよい潮風と緩やかな波の音がほどよく感じられて、とてもリラックスできるわ」
「す、すごい……」サリは、双眼鏡を覗きながら言った。多分、階段を確認したのだろう。
「でも、この公園には二つのいわくつきな伝説があって。一つは、多分その広場の海側に立っている像なんだけど、見える?」
「見えるね、小さな男の子と、その子を抱える大きな男の子。二人とも上に大きく手を伸ばしてる」
「実はね――その子たち、その姿で死んだのよ。遭難に遭って」
「え!?」サリは驚いてこちらを見た。「え、だって、ちっちゃいよ!」
私は、脳内でパラパラとパンフレットをめくる。「一九一〇年のある冬に、この七里ガ浜の沖で、中学生十二人が遭難してしまって……その遺体を発見した時に、その一人の兄が、弟をかばうように死んでいた――というわけなの」
「そっかあ――それで、その人たちを悼んで建てた慰霊碑ってことなんだね……」サリは、大きく深呼吸する。「もう一つは?」
パラパラ――「もっと時代を遡って、鎌倉時代末期。陸地は山に囲まれ南は海という、難攻不落の地と称されたこの鎌倉にあった幕府が、新田義貞の勇猛果敢な突撃によって攻め滅ぼされたことは知ってるでしょ」
「うん」サリは、当然と言った顔で答える。憎らしい。「その後、南北朝時代で日本の勢力図を二分する、足利尊氏と後醍醐天皇が幕府を滅ぼしたんだよね」ムカつく、無茶ぶりに、あっさりと答えやがって……やはり、秘書にするしかないのか。
「――で、その新田義貞が攻める際に利用した拠点が、この稲村ケ崎だったってわけね。つまり、稲村ケ崎は、鎌倉のウィークポイントなのよ。それを踏まえてこの景色を眺めると、フフフ――ぐへ。この、調子に乗った鎌倉を倒すヒントがね……」
「なるほどね。楽しみ方は人それぞれだもんね」サリは、双眼鏡を眺めながら言った。ふと、彼女のこめかみから、一筋の汗が流れた。その汗は、耳の下を通り、首筋を通り、鎖骨のくぼみにハマった。私は、即座にすき焼きをしようと、その鎖骨のくぼみに豆腐をぶち込んだ! ――が、サリの鎖骨はあまりに小さく、絹豆腐を煮るのには、容積が不十分だった。絹豆腐は脆く、弾け、破片がべちゃべちゃと地面に飛び散る。サリは無言でキレた。
彼女は、スタスタと歩いて、自動販売機の前に立って、百円硬貨を二枚投入した。彼女はブツブツと低い声で呟きながら、しばらく吟味し、一番糖度の高い、かつ、頭からかぶるとべたべたしそうなコーラを選んで、ボタンを押した。ガコン――と音が鳴ると、彼女は下方の蓋を開け、コーラの缶を取りだした。忘れずに、お釣りの40円も取りだし、財布に静かに滑り込ませる。彼女は、蓋を開けて、一口飲んだ。もう少し飲めばいいのに、満足したらしく、こちらにスタスタと近づいてきた。何を思ったのか、彼女は鳥を射殺すような目をこちらに浴びせて、缶を私の頭上でひっくり返し、茶色い液体を頭からぶっかけた。私は、当然のごとく、身体中がコーラまみれになった。ペロリ――と私は唇の周りを舐めまわした。甘くておいしい――と思った。しかし――しばらくたって、私は徐々に、サリのやりたかったことを理解した。私は叫んだ。
「そうか、あなたは、私に嫌がらせをしたのね!」
「そうだよ!」
しかしサリは、思ったよりも丁寧に、缶をゴミ箱に入れて、「ありがとう」と感謝の念を述べた。私は、全身に浴びたコーラを、酷く気持ち悪いと思った。ベタベタしたからだ。サリは、私のその姿を見て、幸福感を感じていたようだった。にっこりと微笑み――そして、スマートフォンを触った。
「田中さん……どこにいるんだろう」サリはボソッと呟く。
「田中って名字は、思ったより多いからね」私は答えた。サリは当然無視をする。このままじゃダメだ!
「やり直し! やり直しを要求する!」私は叫んだ。サリは、私の顔を見て、フッ――と少し微笑む。
「田中さん……どこにいるんだろう」サリはボソッと呟く。今度こそ間違えない!
「え、えと、え――え、えと――あれ、ほら、田中さん! アア、私の服を着た! あの、田中さん! 田中さんは――えと、GPSに映らない体質なのかな?」
「人間は基本的にGPSに映らないかな!」
「あ、あそうか。GPSに映らないかあ! ハハ。えと、で、でも、田中さんはほら、人間じゃないから――ね」
「人間だけど」サリは、瞬時に不機嫌な顔をする。私は、慌てて言い訳する。
「で、でも、ほら、田中さんはね、ほら、ガードレールとか、消火器とか、た、食べるから、その、人間だったら食べないんじゃないかと思って……」
「えぇ?」サリは驚いたような顔をして、こちらを見た。「確かに……それは難しい問題だね……」
サリはスケジュール帳を取りだした。困ったことになると、彼女は必ずスケジュール帳にペンを滑らす。書いてある内容は――おぞましい単語の羅列ばかり、本人は思想家の言葉だって言い張っているけれど、器官なき身体とか、尿道的な半端さとか、どう考えてもあり得ない。後で盗んで解読してやろう。
――と、その時。建物の方から、ガラスの割れる大きな音が聞こえた。なんだろう。確かあそこは、日本最大級の長谷観音が設置されている場所じゃなかったか。
「行こう、サリ!」私は立ち上がる。サリと顔を見合わせて、頷く。サリは言った。
「もしかしたら、田中さんがあそこにいるかもしれない」
瞬間。バリリィ、もきょ、ベキュゥ、むむゅぬぅゅう――もげりょ。
「あの音、田中さんの声だ!」サリは叫んだ。
「そうだね、急ごう!」私たちは駆け出した。扉を勢い良く開けて、中を覗きこむ。電気が消されていたらしく、暗闇が広がっていた。鼻先に、ニスの香ばしい香りがする。私は「田中さん!」と叫んだ。暗闇の奥から、やはりバリリィ、むょもにょもゅと声が聞こえた。田中さんはここにいる。そう結論付けるや否や、サリがインスタ映え用に持っていたチャッカマンを取りだし、同じくインスタ映え用に先ほど用意したランタンに火をつけて辺りを照らした。そこには――手足を縛られたまま、木片を喰っていた田中さんと、その傍には――男がいた。
「ようやく……ここに辿り着いたか」男は低い声で呟いた。顔は暗くてよく見えないが、鼻から鼻水が垂れているのは、ランタンの炎の光をよく反射しているから分かった。彼は、こちらを見据えて黙っている。
「あなた、いったい誰? 田中さんをどうする気よ?」私は言った。
「俺は……作者だ」男は難しいことを答えた。作者? どういうこと?
「な、なんの作者だって言うの?」サリは、勇敢にも真っ当な質問をした。さすが、あらゆるポストモダン性を帯びた街コンでも、臆さず質問し続ける強靭な忍耐力を持った女だ。私は、サリに仮託した。
「なんの……言うまでもない。この……長谷寺のだ」
「長谷寺? 君がこの長谷寺を建てたっていうの?」
「建てたのではない!」男は叫んだ。一瞬、田中さんの咀嚼音が止まった。――が、すぐに再開した。バリリィ、もょゅぉむむう。男は、深呼吸をして、声を落ち着けて言った。「……書いたのだ」
「書いた?」と、サリ。「書いたってどういうことなの?」
「そのままの意味だ……俺が書いたら、長谷寺はその通りになる。タニシを――石畳に生やしたのも俺だ。そして――」
――バリリリリリリリィィィィン!
「なに!?」私は叫ぶ。「またガラスが割れたの!?」
「……?」サリは、冷静にランタンを周囲に当てる。だが、「どこも割れてない……」
「え!?」私はサリの方を見た。サリは――こめかみに手を当てている。どうやら、学年一位にしかわからない、複雑な思考を働かせているらしい。――私は、男に向き直った。男は――ニヤニヤしながら、こちらの動揺する姿を見物していた。
「今のも――」男は言った。「俺が書いた」
男は、ヒッヒッヒと不気味な笑い声をあげた。顔は笑ってなかったけれど、確かに――笑っていた。