感想を有料で貰うな! ――感想の良さとは何か
最近「感想」ってなんだろうってよく考える。ちなみに、感想は大事だと僕は強く思っている。読書感想文の指導をなんどかやったことがあるが、感想が書けるスキルってめちゃめちゃ大事。
よくネットでは「読書感想文の宿題なんかいらない!」って意見が蔓延することがあるけれど、僕は偏にやり方が悪いんだと思っている。かといって良いやり方を知っているわけじゃないけれど――少なくとも、「読書感想文はいらない!」は「感想」のもつ素晴らしさを無視していて同意できない。
で、最近巷で流行っている「有料で感想を書きます」って商売――マジで嫌だ。
何が嫌だって、何点かある。今日この記事では二つ理由を挙げてみよう。一つ目は「「感想」を過小評価し過ぎ」ということである。「有料で感想を書きます」という商売には、ある価値の序列が前提となっている。それは「講評>感想」という序列だ。この序列は適当ではないんじゃないかと、僕は思っている。
二つ目は「「感想を書くこと」に値段はつけられないんじゃないか」という疑念にある。あれ、どうやって値段つけてんの? 字数? だとしたらマジで失笑だね(笑)
というわけで、一つ一つ詳細を解説していこうと思う。まずは「「感想」を過小評価し過ぎ」という点から。
「感想」と似たような行為で、かつお金がもらえる仕組みは実際に既に存在する。それは、「講評」だ。
「講評」は例えば、作文教室などで行われる。先生が、生徒の書いた文章を読んで良い点を褒め、悪い点を指摘する。これがいわゆる講評だが――もちろんこの講評はお金が発生する。なんて言ったって読んでもらっているのだ! 自分の尊敬する師に、自分の駄文をお見せする。そして、師にダメ出しをしてもらって――あわよくば書き方などを指南してもらって、作文をよりよいものにする。だから――価値がある。
基本的に(「講」の字が冠していることからも分かるとおり)「講評を与える側/もらう側」の能力には優劣が存在する。もちろん「講評を与える側」の能力のほうが上である。二人の間には刹那的な師弟関係が発生するのだ。「教える側/教えられる側」という立場に分かれる。どう優れているのか――はもちろん「その場所で何を教えるのか」に依存するけれど。
例えば「書き方」を教わるなら、師匠は自分より書き方が優れていなければならない。「売れ方」なら、師匠は自分より売れている人に決まっている。あるいは師匠が物を書かない人でも、「売れ方」を考えるエキスパートなら別にいいか。とりあえず、「講評を与える側」は「もらう側」よりも、そのスキルに優れている必要がある。
ここでちょっと補足しておくと、しばしばネットだと雑に混同されやすいが、「感想」「講評」「批評」「批判」「非難」はそれぞれ違う言葉だ。もちろん境界は曖昧だし、ときには区別されないんだけれど――例えば「批判」のつもりが他の人からは「非難」に見えることは往々にしてある――、僕は、この言葉たちを分けて考えた方が身のためだと思っている。
分けて考えて――それでも分けられないならそれでいいと思う。でも特に「感想/講評」は分けてしかるべきだ。なぜなら、次で説明する。
「感想」には、「講評」とちがって必ずしも優劣関係は存在しない(「必ずしも~ない」だけなので、ある場合もある)。
てか、なきゃいけなかったらやばいよね。「太宰治の小説読んだんだけど楽しかった!」――これも立派な感想になるわけだけど、これを言うだけで「太宰治より俺のが偉い」ってなるわけないじゃんか。講評ならなる。「太宰治の作品読んだんだけれど、ここがダメだわ。俺ならこうするね」――この場合、少なくとも「ここ」の部分の表現では、「俺」の方が優れた書き方ができるというわけだ。
このように「感想」と「講評」では根本的な態度が違うと言える。ちなみにそういうわけで「間違った感想」はない。でも「間違った講評」はあり得る(もちろん「間違った感想の書き方」はある。自分の思いついた感想が相手に思うように伝わらないとき、その感想は明らかに間違った書き方をされていると言える)。
(個人的な意見だけれど、「批評」「批判」「非難」「悪口」には「する側/される側」に優劣関係はほぼないと思っている)
で、ようやく「講評>感想」の価値序列が前提になっているってところだけれど――この前ツイートで、実際感想を商売にしている人がどんな〈感想〉を書いて売っているのか見たんだよね。
したら、「良い点、悪い点を挙げていきます」とか「ABCで評価します」だとか書いてあって、マジで、え? それ講評じゃん! ってなったわ(「評価」って何……?)。
じゃあ、なんで彼らが「講評」という言葉を使わないか――それは、無根拠ですが確信を持って言う。「講評」って言葉を使うと、なんか偉そうに響いちゃうからでしょ。怖いから。そんな大層なものは書けない。でも「感想」なら――。
「感想」って言っておけば、万一「その感想、間違ってるよ!」って言われても、「私の一感想ですので……」とか「僕の感想が気に入っていただけませんでしたか、残念です」とか言っておけばいいもんね。講評じゃないし。「読んだときの感触がどうのこうの」とかなんとか。「感想は自由だし!」みたいな? 自由って(笑)手がつけらんねえな。
つまり、彼らは「講評」よりも「感想」はラフなものだと考えている。だから、自らがやっている「講評」を「感想」と称している。「感想」を蔑んでいる。そういう魂胆が見え見えっていうか――なんかね、悲しいですよ。感想を過小評価し過ぎでは――とはこういうわけです。
で、二つ目。「「感想を書くこと」に値段はつけられないんじゃないか」。
さっき「感想は自由だし!」という意見をバカにしましたが、実は、僕は「感想」は自由であるべきだと思っています。というか、自由を念頭に置いてしか「感想」は書けないんじゃないか――とすら考えています。
例えば太宰治の小説を読んで「良かった」と仮に思ったとしましょう。そのとき、自分には「講評」をするスキルも、「批判」や「批評」をするスキルも何も持っていないとしましょう。
でも、何かを感じている。読んで、何か分からないけれど、なにかを思っている。考えている。上手く言語化できない――言語化できるんならいますぐ「批評」に取り組むべきだ――だけど「何か」が、私の中で発生している。
そんなときに「何か」を頑張って表現しようとするって僕は凄く大事だと思っていて――多分これが「感想」だと思うんですよね。内なるリビドーを、喉元、あるいはペン先を通して叫ぶ――。だから「楽しかった!」は立派な感想だと思う。
だから「感想」は根本的に自由だと思う。無論、その「自由」が侵害されることはあるけれどね。その感想を言うのに、周りの目を気にしたりとか――でも、それは感想が自由じゃなくなったのではなく、感想それ自体が言えてないだけだと言える。あるいは、周りの目を気にした、穏当な感想を自由に選んだとか――(どちらにせよ感想は自由だ)。
「読書感想文」はだから、かなりその指導に緊張を伴った。だって、生徒の自由な感想をなるべく変えないように――でもなるべく形式的な部分のダメな部分を指摘してその「感想」が伝わるように指導しなきゃいけないんだから。
生徒が何を考えてその文章を書いたか。生徒から色々意見を聞きだして、解釈してあげなきゃいけない。おもしろいのは、その「感想」を聞いて、俺の方でも発見がたまにあることだけれど――それはまた別の機会に書こうかな(だから「読書感想文」を失くすのは反対だ!)。
そういう、根本的な自由な営みに「値段をつける」って。可能か? 僕は無理だと思う。
まあその人がめちゃくちゃ偉い人で、「その人の言葉を聞きたい!」ってなるような人だったら商売になると思う。でも、その場合それは「感想」に値段がつくんじゃなくて、その人自身に価値があるんじゃんか。でも、「感想を書くことを商売にする人」の多くはそんなこともない。ページ見に行っても、作品ひとつ書いてないし。ここだけの話、文章拙すぎ。「だなと思いました」って、やばいでしょ(笑)
「感想」の根本的な自由を語ったところで、とりあえず今回は閉めたいと思います。
「感想」は自由だ! もちろん、だからと言ってどんな感想も受け入れるべき――とはならないことには注意です。感想を非難する権利はあります。倫理的に間違った感想はあると思う。でも「間違った感想」はない。どんな感想も、感想だ。そういう意味でも、「講評」と「感想」はやっぱり全然違うし、「感想」は「講評」の劣化版だってことは全くあり得ない。
みんなが思い思いの感想を言い合える場所を――僕は守りたいなあって思う。僕では力不足かもしれませんが(笑)
ってことで、「感想を書く人」に「お金を払うな」ってわけです。ほんと、お金を無駄にしてはいけない――もしよければ、冒頭部分くらいだったら、相談してくれれば僕が読みますから……!(そして、僕のも読んでね!(笑))
(書き忘れた、「推薦文」にお金は払ってもいいんじゃないかな。あれは「推薦」だしね)