財布を持たずに電車に乗った女
おなかすいた。もう昼過ぎだしね。買おう、パンを。ランチパック食べたくなっちゃった。やっぱ耳がないのいいよね、なんか顎の力を使わなくても食べられるし、その割にちゃんとご飯食べた感じがあるっていうか。何味にしよっかな――やっぱ安定のピーナッツ? ああでもブルーベリージャムも捨てがたいな。最近目がちょっと悪くなっちゃったんだよね。いいや、それにしよう。――私は自動ドアに近づき、扉を開けた。ファミリーマートの軽快な入店音が鳴る。私は思わず首を振る。このリズム――すごくいい。なんていうか、メロディーラインが滑らかに繋がってて、乗りやすいっていうか。ダンスするのにちょうどいいよね。――ああ、パンはどこだっけ。私は店内をきょろきょろと見渡す。雑誌の前には黒いマスクをしたサラリーマンが佇んでいた。あの顔はきっと週刊ジャンプを探しているに違いない。最近、『鬼滅の刃』が最終回を迎えてしまったらしいことを聞いた。私は単行本派だったから、まだ終わっていない。依然として、炭治郎くんは勇猛果敢に鬼に切り込んでいる最中だった。だが――彼の頭の中ではもう、ハッピーだかバッドだか、何らかのエンドを迎えているのだろう。奇妙な話だと思った。彼と私とで――過ごしている時間が違うというわけだ。彼は今、どんな時間を過ごしているのだろうか――私は彼の後ろを素通りして、ペットボトルコーナーの前に立った。どこにでもあるような飲み物がズラーっと並んでいる。ファンタは、限定の味が発売されていた。何の味だろう、ちょっと赤っぽい。文字は、結露しててよく読めない。どうせまた、ぶどうの亜種なんでしょ。最近ジュースの味の違いがよく分からないんだよね。ひょっとしてコロナか――と思ったけれど、この前スシロー行ったら3000円分食べちゃったから多分違う。スシローおいしいよね、特にサーモンがさあ。サーモンだけでなんであんな種類あるのって思う。バジルだのマヨネーズだのオニオンだの凄すぎるよねって。また行きたいなあ――でも、この駅からじゃ遠いか。にしても私、なんでこんなところまで来てるんだろ。いや理由はあるんだけれどさ。本屋に来なくちゃならなくって――まあ、目当ての本はなかったんだけれど。結局何にも買わずに本屋を出て、散歩してる。コロナ続きで全然外で歩いてないから、こう気晴らしにね。ここ、すごく人少ないし。今も――コンビニの中でさえ閑古鳥が鳴いている。ホーホケキョ。そういえばいつの間にかサラリーマンがいなくなっている。テレポートか。レジの音が聞こえなかったから、結局買わずに帰ったんだな。炭治郎が冒険をやめていたから――羨ましい。私は続きが読みたくって仕方ないっていうのに。早く出ないかな、22巻。まだ先かあ――ほんと、どうなるんだろう。バッドは嫌だよ、バッドは。バッドエンドだけは勘弁。私は基本的にバッドエンドが嫌い。だって――幸せになりたい。楽しく物語を完結させたい。しばしばハッピーエンドはリアリティがないって批判されることがよくある。まあそうだよ。現実――全然ハッピーじゃないしさ。ハッピーエンドが好きっていうと、共感してくれるにしても「だよね、小説の中でくらいハッピーを感じたいよね」って言われちゃうし。現実はハッピーじゃない――ってことがあまりにも常識的な実感として受け入れられすぎてて、へっ、なんか楽しいな。滑稽だわ。うこっけい。コケコッコー――今日も閑古鳥が鳴いている。現実はあまりにもバッドだ。悪いことばかり起こっている。この私も今既に、現在進行形でバッドエンドに向かっている可能性を否定できない。ランチパックを買おうとしているこの私に降りかかるバッドエンドとは何か。ランチパックを落とす? いやいや、三秒ルールだ。トビに取られる? 大丈夫だ、屋根のある場所で食べる。じゃあ――終電に間に合わない。ハハッ、そんなことあるものか。今何時? 三時じゃん。三時にここを出て終電に間に合わないってやば過ぎでしょ。ないない、そんな分かりやすいバッドエンドが、私の身に起こるなんて。てか「エンド」って何? 私にエンドなんかない。小説じゃああるまいしさ――それにハッピーもバッドもないでしょ。人生はあるがままに進むのだ――いざ進め! 私はパンのコーナーに差し掛かった。あった。ピーナッツ味。隣には、ハム&エッグもある。ああ、捨てがたいな――肉と卵は。ううん、でも二袋は食べらんないかも。アア――どっちにしようか。甘いのは――あ! ブルーベリージャムは売り切れてる! ちきしょう! あったら絶対これを選んでいたのに! ううん、どうしよう迷うな――メンチカツは無理だな。ちょっと今の私には重い。えっと――値段は、ピーナッツが118円、ハム&エッグが138円か。20円違いか――この差分は今の私には大きいか? いやでも、確かSuicaにいくらか入っているから別にいっか――よし、ハム&エッグを買おう。ね、ちょっとくらい贅沢してもいいよね。20円だもん! ――と、私はハム&エッグを掴み取り、レジに並んだ。袋はパンパンに膨らんでいた。おいしそうだ。品出しをしていた店員がパタパタと足音を立ててレジに入る。「どうぞー」と気のない声で私を呼んだ。私は品物を差し出し、スマートフォンを取りだした。「Suicaでお願いします」「かしこまりました」店員は慣れた手つきでレジを操作して、会計の手続きをした。私はスマートフォンカバーに収納していたカードをそのままかざした。ピピッと軽快な音が鳴る。支払いは完了した。「ビニール袋は有料になりますがいかがいたしましょうか」「あ、そのままで大丈夫です」三円を無駄にする気はない。私はそのまま品物を受け取って、店を後にした。軽快な入店音に再び首を振る。メロディーラインというか、やっぱリズムなのかな。エイトビートにぴったりはまっているっていうか――
改札を出ようとすると、機械から仰々しいブザー音が鳴った。
「チャージ金額が不足しています。残金をご確認ください」
――マジか。あちゃあ、ちょうど20円足りないわ。仕方ない、チャージしてくるか……